「加賀国」の版間の差分

提供:「ムラの戸籍簿」データベース
(ページの作成:「作成者:事務局 ==郷村名郡別世紀別初出表== {|class="wikitable align_center" |- |rowspan="2" class="goumei border_bottom"|郷村<br>/<br>世紀||colspan="12"|郷(里)||colspan="12"|村 |- |class="century"| 7||class="century"| 8||class="century"| 9||class="century"|10||class="century"|11||class="century"|12||class="century"|13||class="century"|14||class="century"|15||class="century"|16||class="century"|未詳||class="goukei_r border_bottom"|合計||…」)
 
 
248行目: 248行目:
! style="width:10%"|郷(里)!! style="width:10%"|郡!! style="width:10%"|年月日!! style="width:5%"|西暦!! style="width:55%"|原     文!! style="width:10%"|出  典
! style="width:10%"|郷(里)!! style="width:10%"|郡!! style="width:10%"|年月日!! style="width:5%"|西暦!! style="width:55%"|原     文!! style="width:10%"|出  典
|-
|-
|御馬河里||(石川)||神護景雲3.3.27||769||〔日本霊異記〕越前国加賀郡、有浮浪人之長、探浮浪人、駆使雑傜、徴乞調庸、于時有京戸小野朝臣/庭麿、為優婆塞、常誦持千手之咒為業、展転彼加賀郡部内之山而修行、神護景雲三年歳/次己酉春、三月廿七日午時、其長有其郡部内御馬河里、||加能史料奈良・平安Ⅰp.522<br/>日本霊異記||
|御馬河里||(石川)||神護景雲3.3.27||769||〔日本霊異記〕越前国加賀郡、有浮浪人之長、探浮浪人、駆使雑傜、徴乞調庸、于時有京戸小野朝臣/庭麿、為優婆塞、常誦持千手之咒為業、展転彼加賀郡部内之山而修行、神護景雲三年歳/次己酉春、三月廿七日午時、其長有其郡部内御馬河里、||加能史料奈良・平安Ⅰp.522<br/>日本霊異記
|-
|-
|井出郷||(石川)||延暦9.10.21||790||〔木簡〕(異畢)「井出」郷戸主別宇治万呂/九年十月廿一日||加能史料奈良・平安Ⅰp.652長岡京跡出土木簡||
|井出郷||(石川)||延暦9.10.21||790||〔木簡〕(異畢)「井出」郷戸主別宇治万呂/九年十月廿一日||加能史料奈良・平安Ⅰp.652長岡京跡出土木簡
|-
|-
|三馬郷||(石川)||長承2.10.1||1133||〔白山本宮神主職次第〕【三馬】氏経嫡子/氏実‖〈此時 崇徳院御宇長承二年十月一日、為国司九條民部卿家顕頼目代外記大夫弘助之沙汰、申/鳥羽院廰御下文、限東大桑郷、限南三馬郷、限西大野郷、限北玉曳(戈)郷、此四郷端々ヲ取リ合テ堺四至、/被寄進長日之御供料所、號/御供田保、又米丸保云々、〉||加能史料平安Ⅳp.23<br/>白山本宮神主職次第||
|三馬郷||(石川)||長承2.10.1||1133||〔白山本宮神主職次第〕【三馬】氏経嫡子/氏実‖〈此時 崇徳院御宇長承二年十月一日、為国司九條民部卿家顕頼目代外記大夫弘助之沙汰、申/鳥羽院廰御下文、限東大桑郷、限南三馬郷、限西大野郷、限北玉曳(戈)郷、此四郷端々ヲ取リ合テ堺四至、/被寄進長日之御供料所、號/御供田保、又米丸保云々、〉||加能史料平安Ⅳp.23<br/>白山本宮神主職次第
|-
|-
|味智郷||石川郡||長寛1.-.-||1163||〔白山之記〕加賀国石川郡味智郷有一名山、號白山、其山頂名禅定、住有徳大明神、即號正一位白山/妙理大菩薩、其本地十一面観自在菩薩、建立一間一面宝殿、安置五尺金銅像、殿前繋一尺八/寸鰐口、||加能史料平安Ⅳp.113<br/>白山之記||
|味智郷||石川郡||長寛1.-.-||1163||〔白山之記〕加賀国石川郡味智郷有一名山、號白山、其山頂名禅定、住有徳大明神、即號正一位白山/妙理大菩薩、其本地十一面観自在菩薩、建立一間一面宝殿、安置五尺金銅像、殿前繋一尺八/寸鰐口、||加能史料平安Ⅳp.113<br/>白山之記
|-
|-
|近岡郷☆||(石川)<br/>倉月庄||暦応4.8.7||1341||〔足利直義外題安堵状〕一、西山穢土・西芳両寺事/西芳寺領分、備後国重永別作内新庄・和泉国下条郷〈但先段雖讓/能直除之〉・山城国円観寺西九条田/壹町貳段、次穢土寺領分、加賀国倉月庄内近岡郷内月峯五町・千田郷内供料田貳町・/同月峯参町・末延名田地・木越村千得名壹町・月峯貳町・善遵田貳町・松尾田陸段/〈坪西山/在之〉、/右於両寺者、為惣領能直檀那、可致興行之沙汰之状如件、||加能史料南北朝Ⅰp.219<br/>美吉文書||
|近岡郷☆||(石川)<br/>倉月庄||暦応4.8.7||1341||〔足利直義外題安堵状〕一、西山穢土・西芳両寺事/西芳寺領分、備後国重永別作内新庄・和泉国下条郷〈但先段雖讓/能直除之〉・山城国円観寺西九条田/壹町貳段、次穢土寺領分、加賀国倉月庄内近岡郷内月峯五町・千田郷内供料田貳町・/同月峯参町・末延名田地・木越村千得名壹町・月峯貳町・善遵田貳町・松尾田陸段/〈坪西山/在之〉、/右於両寺者、為惣領能直檀那、可致興行之沙汰之状如件、||加能史料南北朝Ⅰp.219<br/>美吉文書
|-
|-
|上林郷☆||(石川)||文和2.8.11||1353||〔大桑玄猷寄進状〕寄進 白山大神宮/加賀国上林郷内清藤名幷屋□□□□□作田地事/合貳町壹段卌代者〈坪付□□/在之矣〉、/右、当郷地頭職者、玄猷為先祖相伝□□当知行無相違之地也、而依有敬神□□、所奉寄/進白山大神宮也、||加能史料南北朝Ⅱp.44<br/>白山比咩神社文書||
|上林郷☆||(石川)||文和2.8.11||1353||〔大桑玄猷寄進状〕寄進 白山大神宮/加賀国上林郷内清藤名幷屋□□□□□作田地事/合貳町壹段卌代者〈坪付□□/在之矣〉、/右、当郷地頭職者、玄猷為先祖相伝□□当知行無相違之地也、而依有敬神□□、所奉寄/進白山大神宮也、||加能史料南北朝Ⅱp.44<br/>白山比咩神社文書
|-
|-
|笠間郷☆||(石川)||明徳1.③.18||1390||〔足利義満下知状案〕【笠間】北野宮寺領加賀国笠間郷地頭職事、/右、就為闕所、去至徳三年十二月廿五日為法花八講令寄進訖、而號本主勤仕神役之間、/下地入部以下閣之歟、爰今年二月八講料足難渋之上者、於彼地頭職者、為一円神領、社/家可致其沙汰也、||加能史料南北朝Ⅲp.322<br/>北野社家記録||
|笠間郷☆||(石川)||明徳1.③.18||1390||〔足利義満下知状案〕【笠間】北野宮寺領加賀国笠間郷地頭職事、/右、就為闕所、去至徳三年十二月廿五日為法花八講令寄進訖、而號本主勤仕神役之間、/下地入部以下閣之歟、爰今年二月八講料足難渋之上者、於彼地頭職者、為一円神領、社/家可致其沙汰也、||加能史料南北朝Ⅲp.322<br/>北野社家記録
|-
|-
|林郷||(石川)||14C||||〔白山本宮惣免田立用注文〕【拝師】一、色々惣免立用所‖林郷一町九段〈五段上林、三段十五代中□、/一丁卅五代下林〉/味智郷一町 北安田保二段/彼岸田二町〈所役彼岸所数設幷雪掻等、/上分段別三年〉/林郷八段〈四段上林/四段中林〉味智郷七段||加能史料南北朝Ⅰp.179<br/>三宮古記||
|林郷||(石川)||14C||||〔白山本宮惣免田立用注文〕【拝師】一、色々惣免立用所‖林郷一町九段〈五段上林、三段十五代中□、/一丁卅五代下林〉/味智郷一町 北安田保二段/彼岸田二町〈所役彼岸所数設幷雪掻等、/上分段別三年〉/林郷八段〈四段上林/四段中林〉味智郷七段||加能史料南北朝Ⅰp.179<br/>三宮古記
|-
|-
|中林郷<br/>下林郷☆||(石川)||14C||||〔白山本宮免田田数注文案〕【拝師】一、惣勘合免田員数事/合現立用味智・林両郷□/上林郷分/大般若田二町八段 不断□□/彼岸田四段 燈油田四段‖中林郷分/大般若田三町 不断経□□□/彼岸田四段 燈油二□‖下林郷分/不断経田壹町卅五代又一段□□||加能史料南北朝Ⅰp.184<br/>三宮古記||
|中林郷<br/>下林郷☆||(石川)||14C||||〔白山本宮免田田数注文案〕【拝師】一、惣勘合免田員数事/合現立用味智・林両郷□/上林郷分/大般若田二町八段 不断□□/彼岸田四段 燈油田四段‖中林郷分/大般若田三町 不断経□□□/彼岸田四段 燈油二□‖下林郷分/不断経田壹町卅五代又一段□□||加能史料南北朝Ⅰp.184<br/>三宮古記
|-
|-
|宮永郷☆||(石川)||文安5.8.21||1448||〔康富記〕富松入来、帰路同道向彼宿、用朝飧矣、其後依招引参向殿裏築地亭、/就加州宮永郷事有談合子細者也、||加能史料室町Ⅲp.276<br/>康富記||
|宮永郷☆||(石川)||文安5.8.21||1448||〔康富記〕富松入来、帰路同道向彼宿、用朝飧矣、其後依招引参向殿裏築地亭、/就加州宮永郷事有談合子細者也、||加能史料室町Ⅲp.276<br/>康富記
|-
|-
|倉光郷☆||(石川)||長禄3.2.17||1459||〔足利義政御判御教書写〕加賀国倉光・開発・玉鉾郷内石丸名田壹町七段拾五代・畠九段、柏野参分貳、嶋田保内/田五段等事、任度々成敗幷代々御判已下之旨、所還付也、早倉光若狭守光利如元領知不/可有相違之状如件、||加能史料室町Ⅳp.116<br/>温故古文抄||
|倉光郷☆||(石川)||長禄3.2.17||1459||〔足利義政御判御教書写〕加賀国倉光・開発・玉鉾郷内石丸名田壹町七段拾五代・畠九段、柏野参分貳、嶋田保内/田五段等事、任度々成敗幷代々御判已下之旨、所還付也、早倉光若狭守光利如元領知不/可有相違之状如件、||加能史料室町Ⅳp.116<br/>温故古文抄
|-
|-
|成郷☆<br/>松任郷☆||(石川)||大永6.5.22||1526||〔実隆公記〕廿二日、甲辰、晴、円満院領加州成・松任両郷為花園給主可執沙汰之事、為二月書状可/遣庭田之由申之間、調遣之、||加能史料戦国Ⅶp.327<br/>実隆公記
|成郷☆<br/>松任郷☆||(石川)||大永6.5.22||1526||〔実隆公記〕廿二日、甲辰、晴、円満院領加州成・松任両郷為花園給主可執沙汰之事、為二月書状可/遣庭田之由申之間、調遣之、||加能史料戦国Ⅶp.327<br/>実隆公記
|}
|}
====村====
====村====
{|class="wikitable"
{|class="wikitable"

2023年10月24日 (火) 18:57時点における最新版

作成者:事務局

郷村名郡別世紀別初出表

郷村

世紀
郷(里)
7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計
合計 11 8 4 14 6 4 47 3 2 5 50 51 199 310
江沼郡 3 3 2 1 1 2 12 1 2 110 113
能美郡 2 1 2 6 2 12 1 1 1 18 10 39 70
石川郡 4 2 6 2 1 13 1 1 3 21 20 33 79
加賀郡 4 2 1 1 8 1 1 10 18 16 46
所属郡不明 1 1 1 1 2



概要

===概要===
弘仁14年(823)、越前国江沼・加賀両郡を割いて設置された国で、江沼郡から能美郡、加賀郡から石川郡が割かれて四郡となった。南は越前国、北は能登国、東は越中国に接し、西は日本海に臨む。室町期以降加賀郡が河北郡となるが、近世中期には一時的に両郡名が併用された。
加賀の霊山である白山への信仰は、院政期を通して白山本宮を中心に展開する。11世紀後期には一宮として国鎮守的立場にあり、久安3年(1147)比叡山延暦寺末となった。別当白山寺の長吏は白山七社惣長吏を兼ね、加賀馬場全体を統率し、白山本宮は北東日本海沿岸に広がる白山信仰の拠点であった。
平氏打倒のため、木曽義仲が北陸道経由で上洛作戦を展開すると、加賀・越中・能登の武士が投じ、北国軍団の形成が図られた。義仲が没すると、北陸道諸国は鎌倉殿勧農使比企朝宗が進駐し、源頼朝の支配下に組込まれた。鎌倉期には、比叡山延暦寺の末寺として加賀一宮白山本宮が勢威を誇り、神領は石川郡の味智郷・拝師郷を中心に、石川平野一円に分布していた。末社の佐那武社や小白山社を通して、日本海に開かれた湊津や北陸道の要衝の支配に関与していた。さらに、本宮門前の平等寺付近には市場在家の公人集団が形成され、北加賀における生産・流通にかかわる手工業者を神人として掌握したほか、本宮の祭礼・講式の後宴に勤仕する猿楽集団も存在した。
建武2年(1335)、富樫政親が守護に補任されると、流通の拠点野々市に守護所が置かれ、守護代に英田氏を起用した。しかし至徳4年(1387)4月、富樫昌家が没すると管領斯波義将の弟義種が守護に補任され、富樫氏はその地位を失った。応永21年(1414)6月、斯波満種が守護職を罷免され、富樫嫡家の満春と庶流の満成が半国守護に補任されたが、同25年満成が失脚し、満春が一国守護となり富樫嫡家の失地回復が図られた。しかし当時の加賀には、室町幕府御料所や幕府財政を支える京都五山系禅院の寺領が多く所在し、結城・狩野・松任・倉光・相河氏など奉公衆に属する国人も多く、幕府の経済的・軍事的な基盤を形成する地域となっていた。そのため管領が交替するたびに自派に優位な守護が補任される傾向にあり、これがやがて富樫氏の内訌の要因となった。なお、室町期の加賀の特産物には加賀絹・菊酒・梅染、原料生糸・鋳物・刀剣・麺・蝋燭・魚類などが知られ、北陸道筋で江沼郡額田の十日市、能美郡本折の三日市、河北郡の二日市など、地方市場も形成されていた。
戦国期には、北陸で拡大していた本願寺門徒の勢力が富樫氏の守護権力を脅かす力となり、長享2年(1488)6月、政親は反政親派の国人・土豪や一向一揆勢に攻められ、石川郡の高尾城で自害した。以後、一向一揆組織の整備が進められ、天文15年(1546)、金沢御堂が造立され別院的機能が整備されると、御堂が本願寺による加賀国支配の拠点となった。周辺には近在の村などから門徒の商・手工業者の集住が図られ、新しい寺内町の形成がなされた。元亀元年(1570)、織田信長と摂津石山本願寺の間で石山合戦が始まり、天正元年(1573)8月、同盟関係にあった越前の朝倉氏が滅ぼされ、加賀一向一揆は大きな危機に迎えた。同5年、柴田勝家が江沼・能美両郡の一揆を制圧し、北加賀の大半も占領、金沢御堂も陥落した。その後白山麓門徒の蜂起が繰返されたが、同10年3月1日、門徒300余人が捕らえられて磔刑に処せられ、約一世紀にわたって続いた加賀の一向一揆は解体した。同年6月に本能寺で信長が横死すると、羽柴秀吉と柴田勝家が争い、能登国を領していた前田利家は、長男利長とともに勝家方に付いて出陣したが、敗色に及んで秀吉に降伏して加賀国へ攻め入った。これにより利家は加賀国北半部を加増されて金沢城に入った。以後、明治2年(1869)の版籍奉還まで、前田氏の居城として続いた。加賀南半部は越前北庄の城主となった丹羽長秀の支配下となり、その与力として大聖寺四万四千石に溝口秀勝、小松六万六千石に村上頼勝が置かれた。
慶長5年、徳川家康が上杉氏滅亡を企て、転じて関ヶ原に戦った時、前田利長は徳川方に付いて北陸で戦って大聖寺城を落し、戦後加賀南半部は前田氏の領有になった。また能登を領知していた前田利政も除封され、兄の利長領となり、ここに加賀・能登・越中三ヵ国にわたる前田氏領が成立したのである。

参考文献


典拠史料

『加能史料』奈良・平安1、平安2~4、鎌倉1,2、南北朝1~3、室町1~4、戦国1~17、補遺Ⅰ
『豊臣秀吉文書集』1,2

凡例


郷村表

江沼郡

郷(里)

長江、忌浪、山背、竹原、額田、菅浪、八田、三枝

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
山背郷(山代)☆ 江沼郡 天平12.-.- 740 〔越前国江沼郡山背郷計帳〕【山背】(継目裏書)越前国江沼郡山背郷天平十二年計帳歴名 加能史料奈良・平安Ⅰp.209
正倉院文書
額田郷[1] 江沼郡 延暦8.10.- 789 〔木簡〕【額田】江沼郡額田郷戸/延暦八年十月 加能史料奈良・平安Ⅰp.647長岡京跡出土木簡
忌浪郷[2] [2]☆[3] (江沼)
山代庄)
延暦8.11.3 789 〔木簡〕忌浪郷戸主□下豊成戸米五斗/延暦八年十一月三日 加能史料奈良・平安Ⅰp.648長岡京跡出土木簡
菅浪郷☆[4]
南郷☆[5]
諸田郷[6]
江沼郡
〈福田庄〉
大治2.8.- 1127 〔加賀国江沼郡諸司等解〕【菅浪】江沼郡諸司等解 申請 留守所御下文事‖右、今月九日留守所御下文 到来称、以先日雖有申請京上暇由、依無其撰不免給、而何/背下知之旨、可令上洛哉、早可停止件京上者、謹所請如□、抑依諸司等訴切、始自去春/時、於留守所進上申文両度也、‖前掾大江(花押)/菅浪郷司散位大江(花押)/山代郷司散位大江(花押)/南郷司散位大江(花押)/諸田郷司散位藤原(花押) 加能史料平安Ⅲp.738
医心方巻二十五裏文書
八田郷☆[7] (江沼) 建長4.8.12 1252 〔官宣旨写〕【八田】左弁官下加賀国/応永停止国衙濫妨、為一円不輸地全寺用成菩提院領当国額田庄・加納八田郷事/右、得彼庄今月日解状称、謹考旧貫、或手不輸之地、或一庄管領之加納、以如此之/所、所被下一円之宣旨者、承前之佳例・聖代之善政也、 加能史料補遺Ⅰp.62
中院文書
(山代)本郷☆[8] (江沼)
山代庄
年未詳.10.8 (弘安10:1287) 〔丹後某書状〕山代庄本郷河崎預所職者、三郎周氏安堵仕之上者、限候御年貢以下任先例不可致懈怠/候也、将又御拝賀料足□□□□□限定無相違沙汰進候也、若緩怠事候者、如此執申候上/者、可加教馴之由可有御披露候、 加能史料南北朝Ⅰp.272
外記日記紙背文書
福田本郷☆[9] (江沼) 永和1.8.27 1375 〔足利義満下文写〕下 狩野伊豆守義茂法師〈法名/増光〉、可令早領知加賀国福田本郷壹分地頭職之事、/右、任父繁茂去嘉暦二年正月十日譲状、可令領掌之状件、 加能史料南北朝Ⅲp.18
狩野家文書
横北郷☆ (江沼) 寛正2.9.26 1461 〔蔭凉軒日録〕廿六日、林光院領加賀国横北郷為本主斎藤御園致訴訟之由有之、兼達上聞、無相違様以/状訴訟之、今晨披露之、有御領会也、 加能史料室町Ⅰp.312
Ⅳp.216
蔭凉軒日録
郡家郷 (江沼) 天文8.9.13 1539 〔妙法院庁雑掌売券案〕売渡申加賀国南北白江庄事/四至〈東限仏基平面幷能美郡(荘ヵ)境、/南限本折河、西限鹽海、北限郡家郷堺〉/右、件庄者、雖為当門跡旧領、用脚五十貫文ニ、壽盛房江永代所売渡申、御知行不可有/相違者也、 加能史料戦国Ⅹp.201
妙法院文書
うたにの郷(宇谷)☆ 江沼郡 天正11.4.- 1583 〔羽柴秀吉禁制〕禁制 賀州江沼郡/うたにの郷/一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、/一、放火事、/一、還住百姓成煩事、付小屋壊取事、/右条々、堅令停止訖、若違犯輩在之者、速可処厳科者也、仍/下知如件、 豊臣秀吉文書集1p.219
688高山寺文書

年月日 西暦 原     文 出  典
歩教村 (江沼) 文和4.4.17 1355 〔後光厳天皇綸旨〕加賀国額田庄幷加納八田庄・同歩教村、所被寄附新日吉社也、殊興行神事、可致天下静/謐御祈祷旨、可有御下知之旨、天気所候也、以此旨可令申入妙法院宮給、仍執達如件、 加能史料南北朝Ⅱp.92
妙法院文書
深田村☆ (江沼) 延徳2.9.3 1490 〔伺事記録〕一、布施梅千代丸申但馬国土田郷東方・美濃国岩村郷・駿河国太平・得倉・日守参箇/郷・加賀国深田村・越中国々衙検注・山城国栂尾田・丹波国東懸地頭職・近江国米/泉寺〈地蔵坊・河井/已下跡〉等事/任当知行、可被成下安堵御判之旨、歎申之、 加能史料戦国Ⅲp.286
伺事記録
ミツ村(三ツ)☆[10] (江沼) 延徳3.3.10 1491 〔為広越後下向日記〕右ニカシマ〈海中へ森出ル也、/是則カ嶋也〉/本願寺在所也、/幷ヨシザキ、 玉サカノ浦/越前・加賀国堺也、/タチバナ〈加州本願寺ヨリ送馬・人夫/等、数多是マテ来也〉宿アリ、/ニキノヤ 左ニウハキノ濱/ミツ村 ニギ 加能史料戦国Ⅲp.316
為広越後下向日記
黒崎村☆ (江沼) 永正2.7.- 1505 〔福田百姓中宛行状〕一、今暁神事時節宮仕無用之処、非役者者居並間、向後役者之外不可置之旨、公文承仕/成孝召寄申付也、/袖判 福田百性の中也、/宛行/黒崎村内国重名田畠事/合壹所者、/右件壹所者、任本券相伝旨、国元彦次郎可全知行之由、依仰下知之如件、 加能史料戦国Ⅴp.268
北野社家引付
山代村☆ 江沼郡 大永3.2.6 1523 〔親鸞影像裏書〕【山背】大谷本願寺釈実□□□/大永三年〈□/□〉二月六日/親□□人 加州江沼郡山代村/願主釈□□ 加能史料戦国Ⅶp.155
聞名寺所蔵
著(着)津村 江沼郡
八田庄
永正12.8.8 1515 〔方便法身尊像裏書〕本願寺釈実如(花押)/永正十二年〈乙亥〉八月八日/但馬興宗寺門徒加州/方便法身尊像/江沼郡八田庄著津村/太子堂/願主釈慶西 加能史料戦国Ⅺp.259
興宗寺所蔵
額田十日市村 (江沼) 天文13.5.4 1544 〔天文日記〕一、為斎於志加州額田十日市村正仏彦兵衛調備之、仍汁三・菜八・茶子七種也、於相/伴者兼智・常住坊主衆・卅日番衆、自頭人両人出也、 加能史料戦国Ⅺp.272
天文日記
菅生谷村☆ (江沼) 永禄2.9.25 1559 〔熊野権現本社再建棟札写〕奉加御人数之事‖四十文 国分佐次右衛門殿/五十文 新保佐助殿/壹斗 直海宇兵衛殿父子/壹俵 河内・細谷ヨリ、/五升 泉太郎/五十文 菅生谷村ヨリ、 加能史料戦国14p.117
能登国藤瀬熊野神社文書
ミき村(右)☆
たちはな村(橘)☆
(江沼) 永禄年間 1558~70 〔加賀国京家領注文〕京家領のちうもんの御事/一、五かやま かほくの郡 〈大はしのあふミ/代くわん仕候〉‖一、ミき村・たちはな村 同郡 〈杉うら殿御代/くわんにて御さ候〉‖以上、十二个也、/このほか御知行御事、御くら衆へおほせつけられ、郡々・くミ〱ゑ御尋候ハヽ、拾/貫文・二十貫文、又五貫文ほとの京家れうの御知行廿か所、又ハ三十か所も御さある/へく候也、 加能史料戦国15p.179
本願寺文書
大勝寺村☆[11]
萩生村☆[12]
上河崎村☆
極楽寺村☆
上福田村☆
両直下村☆[13]
菅生村☆
黒瀬村☆
曽宇村☆
岡村☆
山田村
下河崎村☆
下福田村☆
塩浜村☆
千崎大畠村☆[14]
田尻村☆
馬場村
山田村☆
小塩辻村☆
大菅波村☆
小菅波村☆
作美村☆[15]
弓波村☆
富塚村☆
落宇村☆[16]
八日市村☆
西島村☆
津波倉村☆
賀茂村☆[17]
荒木村☆
中田村☆
別所村☆
河南村☆
大土村☆
今立村☆
荒谷村☆
中代村☆
四十九院村☆
尾俣村☆
葛谷村☆[18]
保賀村☆[19]
中島村☆
毛合村☆
篠原村☆
宮地村☆
野田村☆
潮津村☆
片山津村☆
柴山村☆
新保村☆
糠箕村☆[20]
月津村☆
矢田村☆
高塚村☆
箱宮村☆
打越村☆
分校村☆[21]
那谷村☆
菩提村☆
瀧か原村☆[22]
宇谷村☆
栄谷村☆
山本村☆
清水村☆
勅使村☆
河原村☆
小坂村☆
水田丸村☆
柏野村☆
塔尾村☆
巣谷村☆[23]
上野村☆
二子塚村☆
二屋村☆
松山村☆
梶井村☆
高尾村☆
小塩村☆
橋立村☆
上木村☆
瀬越村☆
長井村☆
橘村☆
敷地村☆
細坪村☆
南郷村☆[24]
右村☆
奥屋村☆[25]
熊坂村☆
下谷村☆
風谷村☆
萱野村☆[26]
菅谷村☆
大内村☆
塚谷村☆
上原村☆
九谷村☆
長谷田村☆
山中村☆
動橋村☆
桑原村☆
横北村☆
森村☆
江沼郡 天正13.⑧.12 1585 〔賀州江沼郡田畠居屋敷目録〕【菅浪】一、参百拾三石壱斗九升三合一勺九才 大勝寺村/一、百参拾六石一升一合八勺六才 荻生村/一、七百六拾四石弐斗三升五合八勺 上河崎村/一、弐百三石五斗二升七合四勺六才 極楽寺村/一、七百参拾三石九升二合九勺六才 上福田村/一、八百八石九斗四升 両直下村/一、参百拾七石壱斗四升五合七勺 菅生村/一、千百拾九石壱斗八升八合五勺 黒瀬村/一、六百六拾四石四升四合八勺 曽宇村/一、百卅壱石二升九合四勺 岡村/一、弐佰弐拾二石三斗七升三合 山田村/一、弐百四拾三石二斗八升五合七勺二才 下河崎村/一、六百四拾七石五升八合六勺六才 下福田村/一、弐百参拾九石一升八合七勺一才 三村/一、参百五拾石九斗三升三勺八才 塩浜村/一、弐百廿八石四斗三升四合三勺八才 千崎大畠村/一、四百十三石八斗四合八勺七才 田尻村/一、弐拾六石弐斗四合六勺 馬場村/一、参百卅六石八斗三升五合八勺七才 山田村/一、弐百四拾弐石四斗九升三勺一才 小塩辻村/一、四百弐拾五石八斗一升五合七勺八才 大菅波村/一、四百弐拾石七斗三升三合二勺七才 小菅波村/一、七百拾五石六斗六升一合八勺三才 作美村/一、八百弐拾五石六斗七升六合一勺六才 弓波村/一、四百六拾石七斗一升三勺三才 富塚村/一、五拾壱石九斗三合三勺五才 落宇村/一、百九拾七石三斗二升一合六勺一才 八日市村/一、弐百七拾五石三斗一升三勺五才 西島村/一、八拾弐石五斗七升六合八勺二才 津波倉村/一、七百八拾四石壱斗九升一合六勺三才 賀茂村/一、六拾七石一升四合一勺九才 荒木村/一、六拾三石八斗八升二合四勺二才 中田村/一、百六拾八石壱斗三升七勺七才 別所村/一、参百五拾四石五斗六升四合七勺一才 河南村/一、参拾石六升一合四勺二才 大土村/一、百五拾石壱斗七合六勺 今立村/一、弐百四拾七石四斗四升八勺二才 荒谷村/一、八拾七石六斗九升八合四勺 菅生谷村/一、八百七拾弐弐石八斗六升五合六勺八才 中代村/一、四百弐拾八石九斗二升四合四勺一才 瀧中津原/一、参百七拾弐石三斗五升二勺一才 四十九院村/一、弐百卅七石九斗九升四合九勺 尾俣村/一、弐百弐拾七石一斗七升三合九勺四才 葛谷村/一、参百五拾六石壱斗七升七合八才 保賀村/一、七百拾六石六斗五升八合六勺五才 中島村/一、五百九拾三石四斗七升六合一勺一才 毛合村/一、九百卅四石三斗一合七勺二才 山代村/一、弐百四拾三石六斗八升八合四勺二才 篠原村/一、百九拾八石七斗七升四合六勺六才 宮地村/一、百五拾八石四斗五合一勺七才 野田村/一、四百六拾四石五斗一合九勺八才 潮津村/一、六百八拾八石六斗五升四勺 片山津村/一、参百四拾弐石六斗九升四合 柴山村/一、弐百五拾三石四升六勺七才 新保村/一、四百弐拾六石三斗五合四勺六才 糠箕村/一、三百五拾九石五斗五升五合三勺二才 月津村/一、弐百卅七石五斗四升五合 矢田村/一、弐百四拾二石壱斗五升七合八勺四才 高塚村/一、五百拾弐石二斗八升九合三勺三才 箱宮村/一、四百七拾三石壱斗五升二合五勺六才 内越村/一、千六拾石壱斗四升九合八勺三才 分校村/一、千百六拾六石七合八勺三才 那谷村/一、四百卅四石七斗七升五合三勺 菩提村/一、六百四拾五石八斗一升一合一勺七才 瀧か原村/一、五百拾二石二斗一升二合二勺三才 宇谷村/一、弐百七拾八石四斗六升七才 栄谷村/一、七拾石壱斗一升八合七勺七才 山本村/一、百卅九石六斗七升四合八勺四才 清水村/一、三百九拾二石三合三勺 勅使村/一、弐百七石三升二合九勺七才 河原村/一、三百六拾壱石五斗九升五合三勺 小坂村/一、三百五拾九石八斗壱升三合七勺 水田丸村/一、三百四拾壱石七斗三升五合六勺六才 柏野村/一、三百七拾六石四升五合二勺七才 塔尾村/一、百拾四石四斗七升五合五勺 巣谷村/一、弐百九拾壱石八斗六升九合六勺二才 上野村/一、弐百拾八石四斗九升二勺一才 二子塚村/一、八拾弐石八斗七升八合一勺七才 二屋村/一、百拾三石七斗壱升六合九勺四才 松山村/一、弐百九拾八石三斗八升九勺九才 梶井村/一、四百五拾七石壱斗一升八合六勺七才 高尾村/一、百卅壱石五斗七升五合七勺 小塩村/一、百七拾五石六斗一升四合三勺三才 橋立村/一、弐百拾七石六斗三升四合 深田村/一、三百九拾二石四斗三升 黒崎村/一、弐百九拾九石七斗六勺六才 上木村/一、弐百廿八石七斗五升八合 瀬越村/一、弐百五拾三石六斗三升八合 長井村/一、弐拾四石三斗八升六合五勺七才 橘村分/一、五百拾九石八斗四升五勺 敷地村/一、弐百八拾八石九斗二升一合一勺九才 細坪村/一、六百四拾壱石四斗三升二合五勺 南郷村/一、千八拾石九斗九升五合四勺 右村/一、六百五拾八石二升三勺 奥屋村/一、千弐百七拾三石二斗一升八合三勺三才 熊坂村/一、五拾四石七斗三升七合六勺六才 下谷村/一、六拾七石六斗一升五合 風谷村/一、六拾九石二斗六升二合七勺 萱野村/一、弐百九拾三石二升七勺 菅谷村/一、弐拾三石六斗三升七合六勺 大内村/一、百五拾五石壱斗六升四合三勺四才 塚谷村/一、弐百廿五石五斗九升弐合 上原村/一、三百五拾六石六斗三升壱合弐勺九才 長谷田村/一、三百拾四石八斗三升九合四勺 山中村/一、七拾石 塩釜年貢/一、弐百四拾石六升 侍屋敷城下/以上三万九千百拾石/能美郡之内知行分/一、四百七拾八石五斗二升五勺九才 下粟津村/一、三百五拾石九斗五升九合三勺四才 林村/一、弐百五拾九石六斗七升一合六勺二才 二梨村/一、九百六拾九石六斗六升四合 佐野村/一、五百卅八石壱斗九升二合 石川村/一、五百卅弐石四斗五合八勺 末信村/一、三百九拾壱石九斗八升九合四勺三才 小長野村/一、五百六拾二石二斗四合 河原新保村/一、三百六拾石六斗三升九合 戸津村/一、三百拾石五升七合六勺 荒屋村/一、百卅弐石六斗一升四合 湯上村/惣合四万四千石〈墨付紙数拾弐枚〉/天正拾三年閏八月十二日(花押)/溝口金右衛門尉殿/江沼郡分/一、千弐百拾三石四斗三升五合八勺五才 動橋村/一、九百卅七石参斗五升弐合二才 庄十日市/一、参百廿石七斗五升九合九勺三才 庄七日市/一、四百七拾七石六斗七升四合二勺一才 桑原村/一、参百六拾一石弐斗五升五合三才 横北村/一、百七拾一石三斗九合五勺七才 森村/〆三千四百八拾一石七斗七升/右之分御蔵入 豊臣秀吉文書集2p.205
1561溝口文書

能美郡

郷(里)

軽海、野身、山上、山下、兎橋

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
山上郷 (能美) 延暦8.7.15 789 〔木簡〕【山上】山上郷戸主山□□戸米五斗/(異畢)「八年七月十五日」 加能史料奈良・平安Ⅰp.645
長岡京跡出土木簡
山下郷 (能美) 延暦8.7.16 789 〔木簡〕【山下】山下郷戸主財益国戸米五斗上戸主/八年七月十六日 加能史料奈良・平安Ⅰp.645
長岡京跡出土木簡
軽海郷☆ 乃美郡 長寛1.-.- 1163 〔白山之記〕【軽海】次又有一霊験宝社、號檜新宮、垂迹禅師権現本地是地蔵菩薩也、建立人乃/美郡軽海郷松谷住如是房云人、奉祟之後及二百歳矣、 加能史料平安Ⅳp.248
白山之記
得橋郷 (能美) 建仁元.7.20 1201 〔板津成景譲状案〕【兎橋】譲渡 能美御庄内重友保事/合壹所/四至〈東限秋恒、西限郡家長野、/南限得橋郷、北限郡家東吉光保〉右、次男江沼三郎譲渡処也、 加能史料鎌倉Ⅰp.113
石清水文書
たかさかのかう(高坂)☆ (能美)
郡家南庄[27]
永仁4.11.2 1296 〔願西譲状〕ゆつりわたすかゝのくにくんけのみなミのしやうたかさかのかうのうち、又なりミやう/くぬきまちのやしきの事/合壹所者/右やしきハ、くわんさいかさうてんの地也、しかるをそく女ふちわらのうちの女に、/ゑいたいゆつりわたす者也、 加能史料鎌倉Ⅱp.188
大徳寺文書
得橋本郷 (能美) 嘉元2.11.12 1304 〔六波羅下知状〕加賀国得橋郷内佐羅別宮御供田雑掌貞清申、同国得橋本郷〈牛嶋/村〉地頭代乗賢押領当御供田/致苅田追捕由事、/右就訴状、為有其沙汰付、使者安房蔵人大夫氏時・富樫四郎泰景下召文之処、如氏時等/執進乗賢去九月廿五日乗賢和与状者、御供田事任泰隆之例、雖致其沙汰、自河〈上者軽河/下者乃身河〉北者為御供田、自今以後不可相綺〈自余/略之〉、 加能史料鎌倉Ⅱp.238
南禅寺慈聖院文書
一針郷☆ (能美) 建武2.3.5 1335 〔雑所決断所牒案〕足利上総前司入道省観申八院長吏源光以下輩濫妨当国能美庄地頭職事〈副申状/具書〉/牒、於源光等者、違背勅裁之間、可召進之、至下地者可沙汰之由、先度成牒之処、本庄/者雖打渡之、一針郷〈號新/保〉・長野新保幷公文彦七以下分者無沙汰云々、任綸旨可沙汰付于/者省観代、若有子細者可注進者、以牒、 加能史料南北朝Ⅰp.36
石清水文書
上郷 (能美)
郡家庄
貞和2.10.8 1346 〔栄海譲状写〕譲与 勧修寺慈尊院住房・聖教・所領等事‖一、加賀国郡家庄上郷預所職/件郷故良澄僧都以来三代相伝務相違、但為勧修寺領之上者、為長吏奉公之身可相伝之、/御年貢又予依奉公之労所有御免也、 加能史料南北朝Ⅰp.339
勧修寺文書
下郷 (能美)
郡家庄
貞和5.3.10 1349 〔寛胤法親王宛行状〕加賀国郡家庄内下郷幷山科新御領両預所職・同新御領内田地一町九段三百歩事、故長吏/僧正之時令拝領、当知行無相違之地也、而依奉公異他、限永代所充賜任条法印也、 加能史料南北朝Ⅰp.390
筑波大学所蔵文書
長野田郷[28] (能美) 延文2.3.22 1357 〔尼観忍田地売券〕売渡 加賀国長野田郷野田村地頭職内包友名々田事/合壹名者〈四至坪付等/別紙在之〉、/右、於彼名者、重代相伝之私領也、雖然依有要用、代銭玖拾貫文仁、限永代所売渡也、雖須相副手継証文等、依為連券不及副渡、御下文・御下知以下案文封裏訖、 加能史料南北朝Ⅱp.126
大徳寺文書
任田郷☆[29] (能美)
(郡家庄)
延文5.12.21 1360 〔頼胤等寄進状〕中庄任田郷内勝楽寺御敷地・田地事/宗妙安壽御分ゑ/右、彼御たうの田畠・本御屋しきの内、参反拾代、同御たうの内の畠、たうより東乃分/おいてハ、為二世願望成就円満・当家繁昌子孫安穏、宗妙安壽ゑ寄進申処実也、 加能史料南北朝Ⅱp.173
大徳寺文書
開発郷☆[30] (能美)
(郡家庄)
応永13.6.17 1406 〔尊興寄進状案〕奉寄進/安祥寺造営足幷常住僧別食料足事、/合貳拾貫文者〈毎年/京進定〉、/右料足者、拾貫文上郷預所得分内、可致沙汰繁行、拾貫文開発郷預所得分内、可致沙汰/満祐、以上貳拾貫文内、五貫文造営方、拾五貫文立安祥寺小坊為常住僧別食足、奉寄進/者也、 加能史料室町Ⅰp.205
勧修寺文書
中郷 (能美) 応永30.-.- 1423 〔郡家庄慈尊院分年貢算用状〕慈‖十貫文 反銭/十五貫文 中郷得分/十五貫文 同郷得分/廿貫文 安祥寺寄進/以上、六十貫文、 加能史料室町Ⅱp.159
勧修寺文書

年月日 西暦 原     文 出  典
幡生村 江沼郡
(能美)[31]
天平勝宝7.-.- 755 〔東大寺諸荘文書幷絵図目録〕東大寺諸国庄々文書幷絵図等目録事‖国富庄/一通〈七枚〉天平神護二年十月廿一日 田地勘文合一百町/紙絵図一禎/不目録公験九通、依無端不知何庄、但被至沙汰日、糺条理坪付、可/被勘決、絵図‖江沼郡幡生村四至〈東比楽河 南岡 西床滑山道幷神力良家/北十五条与十六条堺畔〉 加能史料奈良・平安Ⅰp.337
東大寺文書
重友村 (能美) 嘉応3.2.- 1171 〔中原頼貞譲状案〕譲渡 相□証文事/在 牛嶋堺板津庄訪(牓)示外重友村、/右件村者、瀬(頼)貞之重代相伝之上、国司代子細於申上、重仰下、而件所皆損亡仕荒廃之/地也、且依有事之縁、介次郎殿加証文奉付申了、然件村御屋敷之近辺也、 加能史料平安Ⅳp.338
石清水文書
南村 (能美)
郡家庄
正応2.10.- 1289 〔東大寺衆徒解案〕東大寺衆徒等重誠惶誠恐謹言、/請殊蒙 恩裁、重不日仰武家、所乱入在庄末寺、勧修寺領加賀国郡家庄南村房信阿闍/梨以下国中悪党人等召出其身、令禁獄幷同寺領近江国清水庄所𨷻入凶類等、急速/召取、令禁□、則又二条殿法印〈良宝〉見習彼悪行、 加能史料鎌倉Ⅱp.150
東大寺文書
牛嶋村[32] (能美) 嘉元2.11.12 1304 〔六波羅下知状〕加賀国得橋郷内佐羅別宮御供田雑掌貞清申、同国得橋本郷〈牛嶋/村〉地頭代乗賢押領当御供田/致苅田追捕由事、/右就訴状、為有其沙汰付、使者安房蔵人大夫氏時・富樫四郎泰景下召文之処、如氏時等/執進乗賢去九月廿五日乗賢和与状者、御供田事任泰隆之例、雖致其沙汰、自河〈上者軽河/下者乃身河〉北者為御供田、自今以後不可相綺〈自余/略之〉、 加能史料鎌倉Ⅱp.238
南禅寺慈聖院文書
野田村(埜田)☆ (能美) 徳治2.4.12 1307 〔免田宛行状〕充行 加賀国野田村観音堂免田事/僧良印/右田地者、良印乍令管領、不申事子細、送年序之間、雖可充給他人、右衛門入道後家依/令執申之、所被充行也、有限寺役等守先例不可有懈怠、 加能史料鎌倉Ⅱp.253
大徳寺文書
佐羅村 (能美) 徳治3.5.2 1308 〔六波羅下知状〕南禅寺領加賀国得橋郷地頭代興範申当国白山中宮佐羅別宮雑掌貞清寄事於牛嶋村下知/状、押領各別当郷佐羅村事、/右当郷地頭職者、六波羅代々料所之処、為当寺領宗像社替、自関東被避進畢、而佐羅/別宮雑掌貞清対于牛嶋村地頭代乗賢、彼別宮御供田事、致同心表裏之沙汰、 加能史料鎌倉Ⅱp.255
南禅寺慈聖院文書
北佐野村☆[33]
南佐野村☆
(能美) 延慶2.6.20 1309 〔延慶二年内検帳案〕一、得橋郷内北佐野村/注進 延慶二年内検田数目六事/加公田二丁二反卅代定、/惣田数二十三丁八反十五代‖同南佐野村/惣田数十一丁九反十代内 加能史料鎌倉Ⅱp.263
南禅寺文書
佐野村☆ (能美) 建武元.8.29 1334 〔後醍醐天皇綸旨〕加賀国笠間保、得橋郷、佐羅・佐野両村、如元所被付寺家也、可被存知之由、天気所候/也、仍執達如件、 加能史料南北朝Ⅰp.27
南禅寺文書
今村 (能美) 建武2.3.20 1335 〔後醍醐天皇綸旨案〕加賀国得橋郷内今村〈山城弾/正跡〉、為南禅寺領可令知行給之旨、天気所候也、仍執達如件、 加能史料南北朝Ⅰp.39
南禅寺文書
廣瀬村 (能美)
河内庄
貞和3.7.25 1347 〔結城重宗売券〕売渡加賀国河内庄廣瀬村内瀬切野田畠等事/合壹所者、/四至〈東限大河、/南限御堂谷幷如来寺大門大道〈但除金剣宮/樋物免在家〉/西限山西面麓、/北限平清水小谷川〉、/右当所者、重宗重代相伝之所領也、而依有要用、代銭貳佰貫文仁、永代所奉売渡于祇陀/寺長老大智上人也、 加能史料南北朝Ⅰp.353
祇陀寺文書
中(長)野田村☆ (能美) 貞和4.12.23 1348 〔僧宗深名田売券〕売渡 中野田村領家方清真名事/合壹名者〈坪付別紙注之〉、/右於彼名者、依有要用、直銭拾貳貫文仁、限永代所売渡実也、但自勝阿之手相伝之状/雖可相副、依為連券不及副渡、此外手継相伝之文書等渡之畢、雖経後代更不可有違乱/煩、 加能史料南北朝Ⅰp.384
大徳寺文書
野代村
蓮臺寺村☆[34]
(能美) 観応3.6.29 1352 〔渋川直頼譲状写〕譲与 所領事‖一々 加賀国野代村〈但此内蓮臺寺村/蓮臺寺寄進〉/一々 越中国目良保/一々 同国春日・吉江保‖右所々、相副本御下文以下手継状等、所譲与于金王丸也、仍譲状如件、 加能史料南北朝Ⅲp.449
賀上家文書
大野村☆ (能美) 文和2.3.- 1353 〔軽海郷年貢等注進状〕大野村/惣行事名/壹貫百参拾伍文〈夫代〉、貳百文〈唐苧代〉、/定田壹町参段、分銭伍貫捌百伍拾文/百肆拾〈番用途〉、陸拾文〈吉方〉、/参斗四升〈加徴米〉、玖斗貳升伍合〈佃米〉 加能史料南北朝Ⅱp.7
金沢文庫文書
御倉村 (能美) 文和3.4.28 1354 〔軽海郷文和二年分年貢済物結解状〕注進 軽海郷文和二年御年貢済物事‖除/壹石 御倉村/伍拾肆石柒斗参升柒合〈在国御代官時料以下〉 加能史料南北朝Ⅱp.63
金沢文庫文書
二松村 (能美) 文和3.5.13 1354 〔寛胤法親王令旨〕二松村内重弘名事、被成公物之由被聞食候畢、可有御存知之旨被仰下候、以此趣可有御/披露候也、恐惶謹言、 加能史料南北朝Ⅱp.67
勧修寺文書
開発村☆[35] (能美) 貞治5.3.2 1366 〔寛胤法親王令旨〕開発村為遠名内薬師寺別当職事、任行春譲状之旨、領知不可有相違、而毎度雖帯預所之/補任、御辺奉公之労績異他、已及子孫訖、仍以別儀、所被止預所之綺也、 加能史料南北朝Ⅲp.471
思文閣墨蹟資料目録
長野村☆[36]
一針村☆
(能美) 応安7.5.18 1374 〔富樫昌家書下写〕長野・一針両村事、厳密致其沙汰、可令遵行石清水八幡宮之雑掌也、縦本主等雖支申、/速退彼輩、令打渡社家之雑掌、可取進請取之状如件、 加能史料南北朝Ⅱp.482
石清水八幡宮旧記抄
安宅村☆ (能美) 明徳2.2.28 1391 〔寂霊住持職譲状写〕譲与 加賀国安宅村太原山聖興寺住持職事、/右、当山住持職事、譲与善救首座、盡未来際不可合断絶者也、随而法嗣・法眷中、並平/僧・弟子分、守此旨、永代不可有意議也、 加能史料南北朝Ⅲp.333
通幻寂霊禅師続語録
高坂村☆ (能美)
郡家南庄
応永13.4.5 1406 〔自明宛行状〕郡家南庄高坂村又成名庶子分事、/合田壹段幷屋敷一所者/〈くぬきまちのかわら田也〉、/右、於彼下地者、本年貢永代不可有沙汰候、其外之御公事者、任惣名之法、可致其沙汰/候、 加能史料室町Ⅰp.204
大徳寺文書
山上村
石(岩)内村☆
(能美)
能美庄
応永14.3.- 1407 〔宣陽門院領目録写〕【山上】宣陽門院御領目録‖一、庁分‖加賀国能美庄〈惣庄 毘沙門堂殿、/山上・石内 三条宰相中将家〉/年貢〈山上村 三百両、/石内村 七百両〉/同国井家庄 勧修寺中納言家/ 加能史料室町Ⅰp.220
椙森野村☆[37] (能美)
河内庄
応永25.12.6 1418 〔結城満宗売券〕売渡/加賀国河内庄椙森野一村之事、/合 四至堺本文書在之、/右、椙森野満宗重代無相違領也、而依有要用、代銭伍拾貫文仁永代為奉祇陀寺売渡之/処也、此上者為満宗子孫、聊不可致違乱妨也、 加能史料室町Ⅱp.62
祇陀寺文書
南坪野村☆[38] 能美郡 応永26.4.12 1419 〔正法眼蔵〕南瞻部州大日本国北陸道賀州路能美郡和気保南坪野村大鷲山常春峰仏陀禅寺住持比丘梵/清拝瞻、 加能史料南北朝Ⅱp.449
正法眼蔵
坪野村☆ (能美) 応永26.5.26 1419 〔正法眼蔵奥書〕(巻六十二奥書)旹応永廿六年己亥五月廿六日、在賀州坪野村拝謄、不肖遠孫比丘梵清 加能史料室町Ⅱp.74
正法眼蔵
安宅住吉村 能美郡 文安4.6.13 1447 〔鰐口〕(表)加賀州能美郡安宅住吉村 願主各々〈敬/白〉/奉懸鰐口南無大悲観世音御宝前〈敬/白〉/(裏)大仏 大口子孫貞明/于時文安四年 林鐘十三日 加能史料室町Ⅲp.222
鰐口(日光寺観世音鰐口)
金剛寺村☆ (能美) 長禄2.8.4 1458 〔蔭凉軒日録〕南禅徳雲院内宝諸軒不知行、加賀国和気保金剛寺村内甕與三入道跡、嘉吉/元年十月、金剛院押領、同国安江庄内安江八郎左衛門入道跡、康正二年九月、摂津守押/領、納所良意・住持宗称白之、 加能史料室町Ⅳp.79
蔭凉軒日録
吉武(竹)村 (能美) 文明19.5.21 1487 〔蔭涼軒日録〕廿一日、天快晴‖晩来応西府召‖於殿中飯尾賀州相□、帰雲院上乗菴領賀/州吉武村、飯尾四郎被官人浅見違乱、自寺家訴之如何、加賀守云、浅見任雅意如此、為/上意堅被仰付者、可致成敗云々、 加能史料戦国Ⅱp.334
蔭涼軒日録
山内新保村☆[39] 能美郡
(山内庄)
明応5.7.21 1496 〔方便法身尊像〕実如(花押)/明応五年〈丙辰〉七月廿一日/□□了□門徒/方便法身尊像/加州能美郡/山内新保村/願主釈正□ 加能史料戦国Ⅴp.137
久保喜代治氏所蔵
湯谷村☆ 能美郡
能美庄
永正11.7.7 1514 〔公文所代桑芸・祐豊連署証状案〕加州能美郡能美庄湯谷村公文名之内六段御年貢事、六个年無沙汰之由、政所屋四郎左衛/門依訴訟申、以前雖被仰下、於京都究済之上者、田地事、不可有相違之由、被成御下知畢、 加能史料戦国Ⅵp.187
蜷川家文書
津波倉村☆ (能美) 永正11.8.25 1514 〔頓円影像〕釈実如(花押)/永□□一年〈□戌〉八月廿五日書之、/加州□□□粟津上保/□□□影/津波倉村本蓮寺常住物也、/願主釈□□ 加能史料戦国Ⅵp.190
本蓮寺所蔵
勝金剛寺村 能美郡 永正14.12.18 1517 〔賀陽院大光明領諸国所々目録案〕一、加賀国能美郡野代保四分一・蓮臺寺村・勝金剛寺村、同別相伝買地・寄附之地、同/長峯山・同野代保惣領渋河殿御料所分内舎利供養料京定千疋事、/一、同料所内長□院殿御仏事京定千二百疋事、/〈閏月加百疋〉 加能史料戦国Ⅵp.310
田中教忠所蔵文書
原村☆
麦口村☆[40]
(能美) 享禄4.4.12 1531 〔原・麦口両村申状〕一、番頭給之田地五反、白山より孫左衛門ニ被渡候を、三年之間押候て、取申候事、/右之条々、か様ニ無謂押妨ニより候て、在所迷惑仕候間、原・麦口として、かの人躰/ニ堅なかをたかい申候処ニ、剰尚々くわんたいを至候間、於領中各口惜存候、此等趣、/宜被聞召入候者、忝畏入可存候、仍而粗言上如件‖原/麦口両村 加能史料戦国Ⅷp.250
小倉家文書
小野村☆ (能美) 天文5.10.14 1536 〔天文日記〕 一、自先日之嵯峨西芳寺領四个村、可申付由申出候‖一、本光院領加州小野村之事、上野上洛之時被申候ヲ、令失念候とて、只今上候、則可/申付由申出候、 加能史料戦国Ⅸp.139
天文日記
小松村 (能美) 天文5.10.14 1536 〔天文日記〕一、妙法院殿就御領北白江南白江・嶋田内経田・野代内保司名・小松村・押野庄内久安/名之義、以上此五个所の本役申付候へと承候也、尊書来、又当門跡への綸旨到来、 加能史料戦国Ⅸp.151
天文日記
徳久村☆
長瀧村☆
(能美) 天文5.⑩.9 1536 〔天文日記〕一、従伊勢兵庫助、御料所為御代官、森嶋分・徳久村幷吉光保・大喜寺・長瀧村、申付/てと被申候〈成奉書〉、 加能史料戦国Ⅸp.161
天文日記
鹽原村☆ 能美郡 天文7.5.8 1538 〔方便法身尊像裏書〕大谷本願寺釈証如(花押)/天文七年〈戊/戌〉五月八日/加州能美郡軽海郷/方便法身尊形/鹽原村常興寺常住物/願主釈慶圓 加能史料戦国Ⅹp.28
常興寺所蔵
宮武(竹)村☆ (能美) 天文7.9.9 1538 〔天文日記〕一、従伊勢守〈貞孝〉、為御料所、以奉書、森嶋分・徳久〈奉書ニハ不見候、/書状ニ有之、〉〈是ハ去々/年申付、〉・六个村〈長嶋・宮武・野田・/高畠・藤六・小豆澤〉/等事、対白山長吏、先年雖申談之、相違之条、令契約相国寺興禅軒云々、此等之通/可申付之由候、此六个村者、今度始而被申候也、 加能史料戦国Ⅹp.86
天文日記
大杉村☆ (能美) 天文7.12.8 1538 〔天文日記〕一、加州軽海郷與大杉村荒木商売相論事、先度左右方ヨリ申上候キ、只今返事にハ、/往古之趣両方申事、実否更無分別、雖然郡中裁許上者、如近年荒木事、不云是非、/可有商売之由、郷内又大杉へも申候、殊郷中之儀者、四年以来雖背申下之旨、郡中/へ懇望之由候間、去夏本尊なと免之候処、無幾程如此喧嘩仕出候事、曲事之由、軽/海へ申候、 加能史料戦国Ⅹp.116
天文日記
収(須)納谷村☆ (能美)
山内庄
天文7.-.- 1538 〔方便法身尊像〕天文七歳〈戊/戌〉□□□□/加州山内庄/方便法身尊形/収納谷村/願□□□ 加能史料戦国Ⅹp.118
勝光寺保管
本折村
若杉村☆
(能美) 天文8.10.16 1539 〔天文日記〕一、妙法院宮へ御返事遣之、仍御領之儀、今度者六个所之注文也、其内三个所者天文/五年申付之き、残三个所者今度始而承候、不申付也、其在所者、本折村領家方・若/杉村領家方・野田村領家方、是也、口状御返事ニハ、御領事、以先年筋目、三个所/申付候、 加能史料戦国Ⅹp.210
天文日記
青嶋村 能美郡 天文8.12.21 1539 〔方便法身尊像〕大谷本願寺釈証如(花押)/天文八年〈己亥〉十二月廿一日/加賀国能美郡/方便法身尊形/山上郷青嶋村/願主釈覚法 加能史料戦国Ⅹp.231
耕西俊一氏所蔵
能美村☆
小杉村☆
(能美) 天文9.5.15 1540 〔天文日記〕一、善法寺申八幡社領小杉八郎左衛門欠所分内能美村・小杉村・長野村、此三个所可申下之由候之条、遣折/紙、是ハ神官、又善法寺も取由候、 加能史料戦国Ⅹp.280
天文日記
松なし(梨)村☆ 能美郡 天文9.10.4 1540 〔天文日記〕一、斎を、加州能美郡白江之内松なし村藤木與四郎、為親之志調之、仍汁 ・菜 茶/子 種、布施愚百疋、 加能史料戦国Ⅹp.345
天文日記
本折八日市村 能美郡 天文10.8.20 1541 〔方便法身尊像〕本願寺釈証如(花押)/天文十年〈辛丑〉八月廿日/加州能美郡本折八日市村/方便法身尊形/西照寺常住物也、/願主釈教明 加能史料戦国Ⅺp.55
西照寺所蔵
風嵐村☆
牛頸村☆
(能美)
山内庄
天文13.5.9 1544 〔室町幕府奉行人連署奉書写〕結城七郎四郎宗俊申加州白山権現再興事/泰澄大師以来為損人次第知行分、山内庄内風嵐村・牛頸村地下人杣取儀領主之依申付也、/先年養父宗弘、以一行筋目、去年令下知、既遂還宮処、同庄尾添村地下人無謂及違乱、/剰社頭致破却云々、 加能史料戦国Ⅺp.280
石川県立歴史博物館所蔵文書
尾副(添)村☆ (能美)
山内庄
天文13.6.5 1544 〔後奈良天皇綸旨写〕賀州白山禅頂諸堂杣取事、開闢以来為山内庄尾副村令存知云々、弥守先規、永代不可有/相違旨、可令下知給之由、天気所也、仍執達如件、 加能史料戦国Ⅺp.279
白山比咩神社文書
出口村☆ (能美) 天文15.6.18 1546 〔加賀国西泉等公用算用状〕天文十四年分賀州より参御公用国定‖百文 山上郷出口村九郎右衛門尉〈とふらい〉、/百文 三个庄能美九郎右衛門尉〈とふらい〉、/参百文 山上郷北市五郎右衛門尉〈いゑ/祝〉、/参貫文 超勝寺火事禮ニ何之御領よりもにあいニ参候、/壹貫文 三个庄長野村番頭いゑ作申候、此いゑハ政所の事ニ候間、合力/申候、 加能史料戦国Ⅻp.131
石清水文書
仏子野村(仏師ヶ野)☆ (能美) 天正2.7.8 1574 〔五郎兵衛山地売券〕永代売渡申山之事/合壹所者〈在坪ハ二口山のうちこゑとにこれ有、西ハおゝかきり、/東まぶをさかい、北もおゝさかい、南も同おゝさかい也〉、/右、彼山者、依有要用、為代銭與糸三ば、たはなかに永代売渡申処実正也、但此於山ニ、/公方之御年公代百文ツヽ、毎年ニ御立候て、末代御知行可有者也、‖売主仏子野村之住人 加能史料戦国16p.144
林甚八家文書
富田村[41] (能美) 天正9.6.27 1581 〔秀利黒印状〕富田村退転に付而、橘領之内へ引之、在所相建之由、尤神妙候、然上者、諸役等三年之/間令免除訖、其上川之儀者、如先規可爉之者也、仍如件、 加能史料戦国17p.202
沢田暉家文書
埴田村☆ (能美) 天正9.7.25 1581 〔埴田村検地打渡状〕埴田村田畠縄打を以相渡申事/上毛付/合 七町参段四十七歩 田方/〈右之内、壹町五段 中毛/内、 壹町二段 下毛/内、 貳段半 荒田〉/上毛付/合 四町九段八歩 畠方/〈右之内、五段小拾歩 荒畠/内、 壹町 下毛〉/合 貳段大八十六歩 居屋敷方/〈右之内、家拾間、右之内後家一人有之也〉、 加能史料戦国17p.203
田中武一氏所蔵文書
下粟津村☆
林村☆
二梨村☆
佐野村☆
石川(子ヵ)村☆
末信村☆
小長野村☆
河原新保村☆
戸津村☆
荒屋村☆[42]
湯上村☆
能美郡 天正13.⑧.12 1585 〔賀州江沼郡田畠居屋敷目録〕能美郡之内知行分/一、四百七拾八石五斗二升五勺九才 下粟津村/一、三百五拾石九斗五升九合三勺四才 林村/一、弐百五拾九石六斗七升一合六勺二才 二梨村/一、九百六拾九石六斗六升四合 佐野村/一、五百卅八石壱斗九升二合 石川村/一、五百卅弐石四斗五合八勺 末信村/一、三百九拾壱石九斗八升九合四勺三才 小長野村/一、五百六拾二石二斗四合 河原新保村/一、三百六拾石六斗三升九合 戸津村/一、三百拾石五升七合六勺 荒屋村/一、百卅弐石六斗一升四合 湯上村/惣合四万四千石〈墨付紙数拾弐枚〉/天正拾三年閏八月十二日(花押)/溝口金右衛門尉殿/江沼郡分/一、千弐百拾三石四斗三升五合八勺五才 動橋村/一、九百卅七石参斗五升弐合二才 庄十日市/一、参百廿石七斗五升九合九勺三才 庄七日市/一、四百七拾七石六斗七升四合二勺一才 桑原村/一、参百六拾一石弐斗五升五合三才 横北村/一、百七拾一石三斗九合五勺七才 森村/〆三千四百八拾一石七斗七升/右之分御蔵入 豊臣秀吉文書集2p.205
1561溝口文書
嶋村☆ (能美ヵ) 16Cヵ.2.21 〔柴田勝安書状〕其村之儀、最前之任筋目、牛頸・風嵐可為同事之条、得其意可被出□、誰々不相届儀於/申懸者、急度可言上堅可申付候、恐々謹言、 加能史料戦国17p.62
山口家文書

石川郡

郷(里)

中村、冨樫、椋部、三馬、拝師、井手、笠間

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
御馬河里 (石川) 神護景雲3.3.27 769 〔日本霊異記〕越前国加賀郡、有浮浪人之長、探浮浪人、駆使雑傜、徴乞調庸、于時有京戸小野朝臣/庭麿、為優婆塞、常誦持千手之咒為業、展転彼加賀郡部内之山而修行、神護景雲三年歳/次己酉春、三月廿七日午時、其長有其郡部内御馬河里、 加能史料奈良・平安Ⅰp.522
日本霊異記
井出郷 (石川) 延暦9.10.21 790 〔木簡〕(異畢)「井出」郷戸主別宇治万呂/九年十月廿一日 加能史料奈良・平安Ⅰp.652長岡京跡出土木簡
三馬郷 (石川) 長承2.10.1 1133 〔白山本宮神主職次第〕【三馬】氏経嫡子/氏実‖〈此時 崇徳院御宇長承二年十月一日、為国司九條民部卿家顕頼目代外記大夫弘助之沙汰、申/鳥羽院廰御下文、限東大桑郷、限南三馬郷、限西大野郷、限北玉曳(戈)郷、此四郷端々ヲ取リ合テ堺四至、/被寄進長日之御供料所、號/御供田保、又米丸保云々、〉 加能史料平安Ⅳp.23
白山本宮神主職次第
味智郷 石川郡 長寛1.-.- 1163 〔白山之記〕加賀国石川郡味智郷有一名山、號白山、其山頂名禅定、住有徳大明神、即號正一位白山/妙理大菩薩、其本地十一面観自在菩薩、建立一間一面宝殿、安置五尺金銅像、殿前繋一尺八/寸鰐口、 加能史料平安Ⅳp.113
白山之記
近岡郷☆ (石川)
倉月庄
暦応4.8.7 1341 〔足利直義外題安堵状〕一、西山穢土・西芳両寺事/西芳寺領分、備後国重永別作内新庄・和泉国下条郷〈但先段雖讓/能直除之〉・山城国円観寺西九条田/壹町貳段、次穢土寺領分、加賀国倉月庄内近岡郷内月峯五町・千田郷内供料田貳町・/同月峯参町・末延名田地・木越村千得名壹町・月峯貳町・善遵田貳町・松尾田陸段/〈坪西山/在之〉、/右於両寺者、為惣領能直檀那、可致興行之沙汰之状如件、 加能史料南北朝Ⅰp.219
美吉文書
上林郷☆ (石川) 文和2.8.11 1353 〔大桑玄猷寄進状〕寄進 白山大神宮/加賀国上林郷内清藤名幷屋□□□□□作田地事/合貳町壹段卌代者〈坪付□□/在之矣〉、/右、当郷地頭職者、玄猷為先祖相伝□□当知行無相違之地也、而依有敬神□□、所奉寄/進白山大神宮也、 加能史料南北朝Ⅱp.44
白山比咩神社文書
笠間郷☆ (石川) 明徳1.③.18 1390 〔足利義満下知状案〕【笠間】北野宮寺領加賀国笠間郷地頭職事、/右、就為闕所、去至徳三年十二月廿五日為法花八講令寄進訖、而號本主勤仕神役之間、/下地入部以下閣之歟、爰今年二月八講料足難渋之上者、於彼地頭職者、為一円神領、社/家可致其沙汰也、 加能史料南北朝Ⅲp.322
北野社家記録
林郷 (石川) 14C 〔白山本宮惣免田立用注文〕【拝師】一、色々惣免立用所‖林郷一町九段〈五段上林、三段十五代中□、/一丁卅五代下林〉/味智郷一町 北安田保二段/彼岸田二町〈所役彼岸所数設幷雪掻等、/上分段別三年〉/林郷八段〈四段上林/四段中林〉味智郷七段 加能史料南北朝Ⅰp.179
三宮古記
中林郷
下林郷☆
(石川) 14C 〔白山本宮免田田数注文案〕【拝師】一、惣勘合免田員数事/合現立用味智・林両郷□/上林郷分/大般若田二町八段 不断□□/彼岸田四段 燈油田四段‖中林郷分/大般若田三町 不断経□□□/彼岸田四段 燈油二□‖下林郷分/不断経田壹町卅五代又一段□□ 加能史料南北朝Ⅰp.184
三宮古記
宮永郷☆ (石川) 文安5.8.21 1448 〔康富記〕富松入来、帰路同道向彼宿、用朝飧矣、其後依招引参向殿裏築地亭、/就加州宮永郷事有談合子細者也、 加能史料室町Ⅲp.276
康富記
倉光郷☆ (石川) 長禄3.2.17 1459 〔足利義政御判御教書写〕加賀国倉光・開発・玉鉾郷内石丸名田壹町七段拾五代・畠九段、柏野参分貳、嶋田保内/田五段等事、任度々成敗幷代々御判已下之旨、所還付也、早倉光若狭守光利如元領知不/可有相違之状如件、 加能史料室町Ⅳp.116
温故古文抄
成郷☆
松任郷☆
(石川) 大永6.5.22 1526 〔実隆公記〕廿二日、甲辰、晴、円満院領加州成・松任両郷為花園給主可執沙汰之事、為二月書状可/遣庭田之由申之間、調遣之、 加能史料戦国Ⅶp.327
実隆公記

年月日 西暦 原     文 出  典
畝田村(宇禰田)☆ (石川)
(大野庄)
宝亀1.12.23 770 〔日本霊異記〕横江臣成刀自女、越前国加賀郡人也、天骨淫泆、濫嫁為宗、未盡丁齢死、淹歴年、記伊/国名草郡應里也人、寂林法師、離也国家、経也他国、修法求道而、至加賀国畝田村、/逕年止住、 加能史料奈良・平安Ⅰp.537
日本霊異記
嶋田村☆[43] (石川) 応保2.2.- 1162 〔小槻有家重奏聞丈案〕一、北嶋保事/件保ハ‖季継分附のところに、地主散位橘朝臣成経か手より、曾祖□□□□領/する所也‖件成経か永業ニ寄附の□またく北嶋保ニハあらす候、山門領加賀国/北□□のうち嶋田村の文書也、名字といひ、領主といひ、各別のてう勿論に候、 加能史料平安Ⅳp.243
壬生家文書
本庄村
山前(崎)村
櫻田村
(石川)
安江庄
正嘉元.③.14 1257 〔経俊卿記〕仍参内、次参二条殿、次帰参院、新大納言〈師継〉申、加賀国安江庄内/本庄・山前・櫻田村、任尼尊恵讓、養孫〈妙光〉可領掌之由、可被下院宣之由申之、妙光彼/亜相子息也、母右衛門局先養母尊恵他界、 加能史料鎌倉Ⅰp.523
経俊卿記
山崎村 (石川) 正和元年頃 1312 〔三宮古記〕一、近年水引神人沙汰進文事、/英田村〈紺一端〉、賀茂畷ヨリ北、大見河□□/津幡村〈紺一端〉、大田ヨリ北、賀茂畷マテ□□/森下村〈紺三端〉、大田ヨリ南、浅野河□□/山崎村〈紺一端〉、 加能史料南北朝Ⅱp.69
三宮古記
しめのゝ村(示野) (石川)
(大野庄)
元亨2.11.11 1322 〔大野庄示野村一王丸名重書案〕しめのゝむらのしゆこの事、りせうか申むね、きこしめしひらかれ候て、もんしよを/これにめしおかれ候ぬ、はんとう・百しやうら、りせうかかたへ拾貳石のよねを、さ/たしわたし候へきよし、おほせにて候、 加能史料鎌倉Ⅱp.472
天龍寺文書
藤江村☆
黒田村☆
赤土村☆
西條村
無量寺村☆
西安原村☆[44]
観音堂村☆
(石川)
(大野庄)
正中2.9.24 1325 〔大野荘田地注文〕藤江村/惣田数三十丁四段廿五代/除陸丁三反廿代〈仏神田以下〉‖黒田村/惣田数卅九丁三反/除四丁三反卅五代‖赤土村〈但至当村内宮腰者、両方可被折中也〉/惣田数参拾貳丁壹段五代/除十七丁‖西條村/惣田数貳拾肆丁九段卅代/除七丁十五代〈仏神田以下〉‖無量寺村/惣田数参拾二丁四十五代/除三丁七反廿代‖西安原村/惣田数拾五丁五反十代/除二丁二反廿五代‖観音堂村/惣田数十三丁九反廿代/除一丁七反十代 加能史料鎌倉Ⅱp.507
天龍寺文書
大志目村 (石川)
小坂庄
建武4.4.21 1337 〔足利尊氏下文〕下 仁木彌太郎義有/可令早領知摂津国井於新庄、越後国松山保〈右馬権頭/義時跡〉、加賀国小坂庄内大志目村〈海老名五郎/左衛門尉惟/則/跡〉地頭職事/右以人、為勲功之賞所充行也者、守先例可被沙汰之状如件、 加能史料南北朝Ⅰp.132
仁木文書
松村☆ (石川)
大野庄
建武4.4.28 1337 〔足利尊氏書状案〕加賀国大野庄内藤江・松村両村事、依御辞退被寄進正脈庵造営料所候、於所残者一円/為当寺領、可有御管領候也、恐惶謹言、 加能史料南北朝Ⅰp.132
臨川寺重書案文
諸江村☆ (石川)
倉月庄
建武4.8.14 1337 〔足利尊氏御判御教書〕下 摂津掃部頭親秀/可令早領知加賀国倉月庄内下近岡・南新保・諸江村・松寺村廿丁方〈長崎五郎左/衛門尉跡〉・同村十/六丁方〈長崎五/郎跡〉・尾張国下門眞庄・美濃国簗瀬・大嶋両郷地頭職等事/右、為刑部権大輔入道々準跡所領等相違分替所充行也、早守先例、可致沙汰之状如件、 加能史料補遺Ⅰp.129
池田氏収集文書
岩方村
木越村☆
(石川)
倉月庄
暦応4.8.7 1341 〔足利直義外題安堵状〕一、惣領能直分‖加賀国倉月庄〈但岩方村半分、比丘尼明丘壹期之程、可被知行之由、載別紙讓/状、松寺村内廿町方、女子伊呂一期之後者、阿古丸可知行之由、/載別紙譲状之間除之、同村十六町方内/参分壹、大隅五郎親泰譲与之間除之〉、近江国柏木御厨内本郷、/右所々者、為能直惣領所譲与也、若無子而有早世事者、舎弟松玉丸可知行之、‖一、嫡女子幸玉分/加賀国倉月庄内木越村・近江国柏木御厨内酒人郷/右所々者、女子幸玉所譲与之状如件、 加能史料南北朝Ⅰp.219
美吉文書
中村 (石川) 貞和3.7.- 1347 〔東福寺諸荘園目録〕一、加賀国中村幷陁田保事/一通正、 六波羅御教書/二通正、 御寄進状幷奉書/一通正、 公綱請文 加能史料南北朝Ⅰp.355
東福寺文書
中林村 (石川) 文和4.2.11 1355 〔佐竹義篤譲状写〕譲与嫡子佐竹左近大夫将監義香所‖一、加賀国中林村/右所領等、代々相伝御下知・安堵御下文・御下状相副之、嫡男義香仁、永代所令譲与/也、更不可有佗妨、但此内庶子等分、以同筆面々譲之、此又不可成違乱煩、凡於本知/行分者、代々譲公験分明也、 加能史料南北朝Ⅱp.88
佐竹七冊
比楽村(平賀)☆ (石川) 貞治5.9.24 1366 〔吉良満貞施行状〕加賀国山下郷内比楽村地頭職〈細川刑部大輔/入道跡〉事、任今月廿二日御下文、可被沙汰付進士太郎/左衛門尉為行之状、依仰執達如件、 加能史料南北朝Ⅱp.277
進士文書
相河村☆
長屋村☆
(石川) 至徳2.4.27 1385 〔室町幕府御教書〕加賀国相河村西方〈相河加賀守/跡〉幷長屋村事、/為東寺鎮守八幡宮料所、々被預置也、早守先例、/可被致沙汰之状、依仰執達如件、 加能史料南北朝Ⅲp.249
東寺百合文書
有松村☆ (石川) 明徳元.12.24 1390 〔足利義満下文案〕下 小早河民部法眼実忠/可令早領知尾張国三宅郡・加賀国有松村地頭職事、/右、為先給之替、所充行也者、守先例、可致沙汰之状如件、 加能史料南北朝Ⅲp.328
室町家御内書案
八幡村☆ (石川) 14C 〔白山本宮惣免田立用注文〕一、色々惣免立用所‖林郷一町九段〈五段上林、三段十五代中□、/一丁卅五代下林〉/味智郷一町 北安田保二段/彼岸田二町‖一、不断経上分事 段別三斗充〈沙汰所納之、/小破修理加之〉/寺中五時講田事〈院主分、大勧進分行事、夏□□/貳段拾五代〈地本在別所、五人分、以上二石七斗米、執□□/卅五代〈地本八幡村在之、/段別一石三斗〉/一段廿代早田 作人新兵□/卌代 早田 作人別所孫□□/五代 作人井□□/以上別所分 加能史料南北朝Ⅰp.179
三宮古記
倉光村☆ (石川) 応永21.4.19 1414 〔足利義持御判御教書〕加賀国倉光・開発村・岩内村、玉鉾郷内石丸名田壹町七段拾五代・畠九段、中興保内田参/町貳段・柏野参分貳、嶋田保内田五段事、早任相伝知行之旨、倉光藤増丸可領掌之状如/件、 加能史料室町Ⅰp.385
武家手鑑
わたつ村(渡津)☆ (石川)
河内庄
永享10.1.11 1438 〔結城満宗注進状〕祇陀寺奉寄進加賀国河内庄畠地〈坪付/堺〉事、/合参个所者、/一所ます谷〈南ハわたつ村内小いわう谷をさかう、/西ハ同小いわう谷の内へさかう、/北ハあいたきをさかう、東ハ別宮ふくまん名山のをゝさかう〉‖右、彼参个所畠地、四至堺之状如件、 加能史料室町Ⅲ36
祇陀寺文書
笠間村☆
石立村☆
(石川) 文安5.6.- 1448 〔笠間則吉寄進状写〕【笠間】奉 寄進加賀国笠間・石立両村事〈領家分者、自元八幡宮御領也〉、/右、彼両村地頭者、笠間六郎則吉帯御代々御判等、重代相伝之私領也、然於鹿苑院殿様/御代、彼年貢之内萬疋、為北野宮二季法花八講以下要脚、御寄進之条勿論也、 加能史料室町Ⅲp.242
石清水文書
倉部村☆ (石川) 康正2.5.22 1456 〔足利義政御判御教書案〕近江国林村散在、伊勢国田村散在、同国吉澤・吉末御厨、若狭国東松長庄参分壹〈不知行〉、加賀/国倉部村〈守護押領〉、同国玉鉾村四分壹〈守護押領〉、同国千木村〈守護押領〉、同国興保幷預所職〈守護押領〉‖早任当知行之旨、大舘兵庫頭教氏領掌不可有相違之状如件、 加能史料室町Ⅳp.27
建内文書
豊田村 (石川) 長禄4.8.22 1460 〔長禄四年記〕一、於当方内談有之、新田羽州越中守申清史々堂領賀州豊田村代官職事也、意見状之案/文有之、披露飯尾美濃入道、以次朝飯以下一献有之、 加能史料室町Ⅳp.161
長禄四年記
橘嶋村
よなミつ村(米光)☆[45]
(石川) 寛正3.8.16 1462 〔板津親家書状〕加賀国橘(嶋脱ヵ)村領家之事、一方者南禅寺雲門庵、今御一方者壬峯より御知行候を、彼御分を/当国よなミつ村萬福寺住僧因監寺ト申者、御代官仕候キ、只今御代官之事は時衆にて候、/対地頭候ても、緩怠のミ候間、京とへもさそあいしらへ仕候らん、 加能史料室町Ⅳp.239
壬生家文書
近岡村☆ (石川)
倉月庄
文明9.10.15 1477 〔室町幕府奉行人連署奉書〕加賀国倉月庄内近岡村・南新保・大河縁等事、為山門掠給奉書、致違乱云々、甚無謂、/早任当知行之旨、弥可被全領知之由、所被仰下也、仍執達如件、 加能史料戦国Ⅰp.287
美吉文書
河内村 (石川) 文明10.2.- 1478 〔建仁寺両足院領目録〕建仁寺両足院領之事/一、嶋田・河内村・打越・能美八幡 加賀国/一、末寺保善院幷寺領 同国/一、亀別宮 但馬国/一、末寺如意庵幷庵領 近江国/一、仰木田地 同国 加能史料戦国Ⅰp.309
両足院文書
今江村☆
五箇村
野老塚村
寸次郎村
安原村☆[46]
大(太)郎田村
吉藤村
(石川)
(大野庄)
文明14.12.- 1482 〔臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状〕参斛壹斗伍升参合三勺 今江村散田壹町貳段内、壹段ハ六斗五升代、已上延定、/雖為玖斛四斗六升、此下地無用水由於寺家歎申間、三分/一応永元年御免、/拾肆斛参斗捌升貳合五勺 五箇村新井方江、自応永八年始御免之‖陸斛陸斗参升九合九勺一才 円楽寺分野老塚村友包四分三・同宇禰田散田□□卅代‖陸斛捌斗柒升 寸次郎村則清名三分二、依砂成不作由、以起請文難申間、/永享十二年御免‖肆斛貳斗 安原村中九郎御得分米、依無田地不納之、文安三年勘定/状在之‖拾肆斛伍斗六升四合〈追而可尋〉 大(太)郎田村善了直納由申‖壹斛貳斗五升 吉藤村孫大郎訟訴、 加能史料戦国Ⅱp.58
鹿王院文書
青崎村☆[47] (石川)
倉月庄
文明17.9.21 1485 〔室町幕府奉行人連署奉書〕摂津中務大輔知行分加州倉月庄内礒部庶子分幷青崎村等事、就富樫次郎押領、度々雖有/御成敗、于今不去渡云々、太不可然、所詮不日合力彼代、可被全所務之由候也、仍執達如件、 加能史料戦国Ⅱp.208
美吉文書
保後村 (石川) 明応4.12.- 1495 〔臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状〕註進/臨川寺御領加州大野庄〈明応四/乙卯〉御年貢算用状之事‖玖角九斗六升 保後村番頭二郎衛門□井料、不弁、/壹角参斗内、 得蔵内申事、/荘厳坊 横山 二郎左衛門/白浄庵 永善寺/百四拾斛 庄主給、/伍拾斛 沙汰人給、 加能史料戦国Ⅳp.208
天龍寺文書
四十萬村☆ (石川) 明応8.9.晦日 1499 〔富樫泰高寄進状〕本庄四十萬村之内大仙寺分之屋敷幷山林之事、本庄□同村法慶道場江所寄附也、然上者、/可全知行之状如件、 加能史料戦国Ⅴp.67
善性寺文書
鹿嶋村☆ 石川郡 文亀2.3.28 1502 〔方便法身尊像裏書〕大谷本願寺釈実如(花押)/文亀二年〈壬戌〉三月廿八日/寺□称仏寺門徒/方便法身尊像/加州石川郡/北嶋保鹿嶋村/願主釈善玄 加能史料戦国Ⅴp.171
盛立寺所蔵
合(相)河村 (石川) 永正3.3.8 1506 〔方便法身尊像〕本願寺釈実如(花押)/永正三年〈丙寅〉三月八日/専光寺門徒加州/方便法身尊像/石川小泉保合河村/願主釈善□ 加能史料戦国Ⅴp.282
普願寺所蔵
諸江はま村☆[48] (石川)
倉月庄
永正4.正.21 1507 〔彦左衛門寄進状〕奉奇案主名之内別相畠之事/合百伍拾本者、/右、件畠者、聖人御御やかしの為奇進仕候上ハ、彦左衛門子々孫々として、違乱煩申輩/出来候ハヽ、ほうせうの者たるへく候、其時壹儀之子細申間敷候、‖奇進主倉月庄諸江はま村住人 加能史料戦国Ⅴp.328
勝授寺文書
劍村[49] 石河郡 永正18.5.1□ 1521 〔方便法身尊号〕永正十八年〈辛巳〉五月十□□/加州石河郡劍村□/方便法身尊號/清澤願得寺常住物也、/願主釈実□ 加能史料戦国Ⅶp.117
平乗寺所蔵
久安村☆ (石川) 大永4.5.13 1524 〔室町幕府奉行人連署奉書〕加賀国中野田・久安両村事、早任御当知行之旨、弥可被全領知之由、所被仰下也、仍執/達如件、 加能史料戦国Ⅶp.209
曇華院殿古文書
八田中村☆ (石川) 天文5.正.25 1536 〔天文日記〕今朝於加州先年構別心たる人数侘言、上野申候、其人数、八田中村/祐妙・中興/次郎左衛門尉・土室/平兵衛・/番田/九郎兵衛・小杉/勝誓、又慶誓取次候とて了明、又同取次菅生/了願、是ハ去年候哉、 加能史料戦国Ⅷp.275
天文日記
直江村☆ (石川) 天文5.5.2 1536 〔天文日記〕加州直江村新右衛門尉と云仁、先年国乱行之時、令忠節候仁たるあひた、同村彦次郎、/〈新右右衛門尉/兄弟也〉構別心、国を退候、 加能史料戦国Ⅷp.275
天文日記
宮保村☆
供料田村
(石川) 天文5.10.12 1536 〔天文日記〕一、従嵯峨西芳寺領加州宮保・供近岡村・供料田村・諸江村、此四个村之事申付候へと/の被申事、四个村へ一通折紙所望之由候、 加能史料戦国Ⅸp.139
天文日記
弘岡村☆[50] (石川)
安江庄
天文5.⑩.6 1536 〔天文日記〕一、南禅寺瑞雲庵知行、安江庄内弘岡村・小坂一分方地頭職・富積保西方五町七段・宮/永郷内花継名・得蔵内壹町田・大野庄内宇禰田村・金武・安丸・末吉・友眞〈已上、拾个/所〉、此分申付てと被申候、此寺ハ、佐子局宿坊にて候とて候〈成奉書〉、 加能史料戦国Ⅸp.161
天文日記
橘村
蓮池村☆
(石川) 天文5.⑩.19 1536 〔天文日記〕一、小田加賀入道知行、〈石川〉玉鉾郷・柏野西方三分一・倉光内四屋分幷平賀知行分北嶋保/所々散在・橘村・蓮池村、此分六个所申付てと被申候〈成奉書二通〉、 加能史料戦国Ⅸp.172
天文日記
中興村 (石川) 天文6.4.2 1537 〔加州所々知行被申趣又申付方記〕一、以前被申神護寺領〈御下知来〉、豊田村幷中興村〈興修理兎角/申候条、今一度之〉、折紙所望候、 加能史料戦国Ⅸp.333
加州所々知行被申趣又申付方記
興津屋村 (石川) 天文7.3.29 1538 〔伊勢貞孝書状案〕当院領加賀国興津屋村之事、貞陸・貞忠一行之旨、無別儀候、弥可被専寺納事可為肝要/候、恐々謹言、 加能史料戦国Ⅹp.19
親俊日記
長嶋村☆
野田村☆
高畠村☆
(石川) 天文7.9.9 1538 〔天文日記〕一、従伊勢守〈貞孝〉、為御料所、以奉書、森嶋分・徳久〈奉書ニハ不見候、/書状ニ有之、〉〈是ハ去々/年申付、〉・六个村〈長嶋・宮武・野田・/高畠・藤六・小豆澤〉/等事、対白山長吏、先年雖申談之、相違之条、令契約相国寺興禅軒云々、此等之通/可申付之由候、此六个村者、今度始而被申候也、 加能史料戦国Ⅹp.86
天文日記
佐那武(寺)村 (石川) 天文8.⑥.7 1539 〔天文日記〕一、従山門正観院、知行佐那武村申下之段、祝著之由候、仍一束・一本到来也、取次/左衛門大夫也、 加能史料戦国Ⅹp.173
天文日記
下宇禰田村(畝田)☆[51] (石川) 天文8.10.11 1539 〔天文日記〕一、飯尾大和守知行下宇禰田村事、重而申付候也、 加能史料戦国Ⅹp.215
天文日記
福富村☆[52] (石川) 天文9.7.1 1540 〔天文日記〕一、従朝日左衛門尉〈奉公之也〉、一束〈高四寸〉・一本〈三十疋/内歟〉到来候、仍知行福富村事、未/進多之、又彼年貢、此方へ上之由、百姓申之間、遂糾明候所ニ虚言顕著候、旁重而/折紙所望之由候、 加能史料戦国Ⅹp.326
天文日記
水嶋村☆ 石川郡 天文12.11.- 1543 〔水島式部卿申状〕右、加賀国石川郡水嶋村事、代々譲得之、無相違之処、近年下間源八郎買得云々、併/相掠公儀候者哉、数通証文〈備/右〉、此等之趣被披聞召之、任請文旨、被成下御下知者、/忝可存知候、 加能史料戦国Ⅺp.214
別本賦引付
三浦村☆
二口村☆
(石川) 天文15.12.17 1546 〔天文日記〕一、花山院へ以返礼、還禮遣之、又知行分三浦・二口村事申付也、又五个所へ與四个所/とへ折紙書出之、是ハ三浦□・二口両所内小在所へ一々遣之、 加能史料戦国Ⅻp.150
天文日記
井口村☆ (石川) 永禄元.7.23 1558 〔五藤次郎年貢請文〕荘厳講御年貢、数年無沙汰申事、曲事之由蒙仰候、無餘儀奉存候、雖然以御意之旨、圓/如房種々被成御扱、相立却米、落居仕、被成御一筆候、/近比者畏令存候、於此上者、彼/御年貢如本張有様沙汰可仕候、‖井口村/五藤次郎 加能史料戦国14p.90
白山比咩神社文書
長田村 石河郡 永禄3.7.12 1560 〔室町幕府奉行人連署奉書写〕北山妙光寺領加賀国石河郡豊田領家職・長田村東西・櫻田土事、今度正実掠運構退転、/雖給奉書度々、依錯乱仏閣荒野之条、於建仁寺内可被建立彼一宇叚、既先御代被成御下/知上者、被返付畢、早如元令領知可被専勤行由、所被仰下也、 加能史料戦国14p.154
妙光雑記
くほ村(窪)☆ 石川郡 永禄3.10.20 1560 〔了妙田地売券〕永代売渡申薬師丸名田地之事/合壹名者、/右、件田地者、先祖相伝之雖為名、依有要用、代銭三十貫文、永代売渡申候、則本券数/通相添渡申候、万一菟角違乱申輩出来候者、盗人罪科可被処也、仍為後日之沽券之状如件、 加能史料戦国14p.161
竹田文書
若宮村☆ (石川)
(豊田庄)
永禄5.8.- 1562 〔友重宣盛田地売券〕永代売渡申田地之事/合壹段七者〈有坪ハ豊田若宮村之北ノ方ニ在之、東ハ江ヲ限リ、南ハアセヲ限、西ハ道ヲ限、北ハアセヲ/限也、下口参石作職若宮之甚右衛門尉方也〉、合壹石者〈有坪ハ豊田若宮村之北ニ在之、東南北ハアセヲ境、西ハ江ヲ限、北ノ方両家之分也、下口壹石/作職若宮之太郎左衛門尉方〉、 加能史料戦国14p.261
竹田文書
新屋村☆[53] (石川) 永禄11.3.25 1568 〔太郎衛門尉年貢請文〕(端裏書)「上林郷新屋村太郎衛門尉一筆□□」/白山荘厳講御田地、火御□□□□貳段之内廿五束苅、御年貢数年□□沙汰ヨリ今度為惣/中曲□□□□□種々致□侘言、相立却米、落居□□百性罷成候上者、向後御年貢□□□□有/様ニ沙汰仕可申候、 加能史料戦国15p.128
白山比咩神社文書
野之市村☆[54] 石川郡 天正2.7.7 1574 〔棟札写〕旹住持権律師佐悦善了/天正二甲戌歳/棟門再興造立/七月七日/大工加州石川郡野之市村/藤原朝臣太郎兵衛尉宗長/同弟子惣五郎宗海 加能史料戦国16p.143
金森文書
湯湧村☆ (石川) 16C 〔天正三年記〕左様ニ種々ノ事候ツル、ソ/ノ後加州へ被仰付、安藝曲言ノ由国中へ被仰下サフラフ間、湯湧村ト申所、山中ニ城/ヲコシラヘ、被籠ツレハ、国中ノ衆押寄、責ラレサフラヘハ、夜中ニ落行キ、越前ヘ/父子トモニ落行隠レ居テ、数个年越前ニカヽミ居ラレ侍ヲ、蓮如上人御往生近クナリ/テ、 加能史料戦国Ⅴp.22
天正三年記

加賀郡

郷(里)

大桑、大野、芹田、井家、英多、玉戈、田上

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
大野郷☆[55] 加賀郡 宝亀元.12.23 770 〔日本霊異記〕【大野】横江臣成刀自女、越前国加賀郡人也、天骨淫泆、濫嫁為宗、未盡丁齢死、淹歴年、記伊/国名草郡應里也人、寂林法師、離也国家、経也他国、修法求道而、至加賀国畝田村、/逕年止住‖林問、汝何女、答、我有越前国加賀郡大野郷畝/田村也横江臣成人之母也、 加能史料奈良・平安Ⅰp.537
日本霊異記
小坂郷☆ 加賀郡 宝亀5.12.24 774 〔奉写一切経経師請筆手実帳〕(裏書)「越前国加賀郡小坂郷戸主道公人守戸口□」/調田庭継解 申筆受事/宝如来三昧経上巻〈廿三〉下巻〈廿〉正法念處経一巻〈廿一〉 加能史料奈良・平安Ⅰp.564
正倉院文書
綾部里 香々郡 8C 〔木簡〕越前国香々郡綾部里綾部里/□田伊支見白米五斗 加能史料奈良・平安Ⅰp.49
平城宮跡出土木簡
芹田郷(千田) [56] (加賀) 8C 〔木簡〕【芹田】芹田郷戸主建部石人戸口六人□万呂/白米五斗 加能史料奈良・平安Ⅰp.648長岡京跡出土木簡
大桑郷☆
玉曳(戈)郷☆[57]
(加賀) 長承2.10.1 1133 〔白山本宮神主職次第〕【大桑】【玉戈】氏経嫡子/氏実‖〈此時 崇徳院御宇長承二年十月一日、為国司九條民部卿家顕頼目代外記大夫弘助之沙汰、申/鳥羽院廰御下文、限東大桑郷、限南三馬郷、限西大野郷、限北玉曳(戈)郷、此四郷端々ヲ取リ合テ堺四至、/被寄進長日之御供料所、號/御供田保、又米丸保云々、〉 加能史料平安Ⅳp.23
白山本宮神主職次第
田上郷☆[58] (加賀) 貞和3.7.7 1347 〔足利直義下知状〕【田上】金子大蔵左衛門尉親定申加賀国田上郷一方地頭職事/右地者、親定相伝之条、正応元年九月二日関東下文・嘉元四年八月十八日外題安堵・文/保元年十二月一日譲状等分明也、而守護代額斎藤四郎用家押領之由、就訴申尋下之処、/如用家去三月廿八日請文者、親定越中合戦之時、多年正員不参之間、為上裁被充下兵粮/料所、為軍忠仁等所支配也云々、 加能史料南北朝Ⅰp.350
石川県立歴史博物館所蔵文書
上田上郷☆ 河北郡 天文7.9.14 1538 〔天文日記〕一、従荒川治部少輔、以書状、桃井治部少輔断絶之条、二番衆中へ、彼知行被仰付間、/加州河北郡上田上郷事可申付由候、 加能史料戦国Ⅹp.86
天文日記

年月日 西暦 原     文 出  典
深見村 (加賀) 天平21.3.15 749 〔万葉集〕越前国掾大伴宿祢池主来贈歌三首/以今月十四日、到来深見村、望拝彼北方、常念芳徳、何日能休、兼以隣近、忽増戀/緒、加以先書云、暮春可惜、促膝未期、生別悲号、夫復何言、臨紙悽断、奉状不備、 加能史料奈良・平安Ⅰp.260
万葉集
少村 (加賀) 正応2.10.23 1289 〔永円申状案〕井家庄預所職事、 院宣〈副左大辨/宰相請文〉謹下給候畢、当職者、源□□親父家経法師〈法名/行仏〉経沙汰、/於都鄙匪啻抽奉公之忠勤、開発□知行庄家、知行経年序畢、仍去文永四年氏女可相伝知/行之□、依書給譲状候、領主女房賜與安堵之下文於氏女候畢、□□凶害召放当庄内少村/等之間、行仏奉公之旨趣、氏女相伝之□□、依令申達候、 加能史料鎌倉Ⅱp.145
兼仲卿記裏文書
英田村
津幡村☆
森下村☆[59]
(加賀) 正和元年頃 1312 〔三宮古記〕【英多】一、近年水引神人沙汰進文事、/英田村〈紺一端〉、賀茂畷ヨリ北、大見河□□/津幡村〈紺一端〉、大田ヨリ北、賀茂畷マテ□□/森下村〈紺三端〉、大田ヨリ南、浅野河□□/山崎村〈紺一端〉、 加能史料南北朝Ⅱp.69
三宮古記
若子村
笠野村
(加賀)
井家庄
建武3.8.30 1336 〔足利尊氏書状写〕美濃国大榑庄、加賀国井家庄内若子村・笠野村南方、能登国家田庄、丹波国弓削庄、播/磨国多可庄等地頭職事、可有御管領候、以此旨可令奏達給候、 加能史料南北朝Ⅰp.99
京都御所東山御文庫記録
中条のむら☆[60] (加賀)
(井家庄)
建武4.2.3 1337 〔坊城俊定室譲状〕備前国和気の庄・河内国しまかしらの庄・」たちまの国いそふの庄・かゝのいのいゑのう/ち中条のむら、いちこのゝちはゆつりまいらせ候へきよし申てさふらへとも、たうしよ/り御くわんれい御ならひ候て、いかう御ふちにてさふらふへく候、 加能史料南北朝Ⅰp.128
藤岡氏所蔵文書
松寺村☆ (加賀) 建武4.8.14 1337 〔足利尊氏御判御教書〕下 摂津掃部頭親秀/可令早領知加賀国倉月庄内下近岡・南新保・諸江村・松寺村廿丁方〈長崎五郎左/衛門尉跡〉・同村十/六丁方〈長崎五/郎跡〉・尾張国下門眞庄・美濃国簗瀬・大嶋両郷地頭職等事/右、為刑部権大輔入道々準跡所領等相違分替所充行也、早守先例、可致沙汰之状如件、 加能史料補遺Ⅰp.129
池田氏収集文書
気屋村☆ 加賀国 康安1.8.25 1361 〔額用家渡状〕譲申され候 加賀国北英田保内気屋村田畠事、/合中村名壹名幷散田貳町者〈坪付別紙/在之〉、/右所領者、富樫介高家勲功之賞として拝領候、当知行無相違候間、故介氏春かてのこう/ちの女房御方へゆつり申され候あひた、惣置文被載候、 加能史料南北朝Ⅱp.192
美吉文書
萱野村(苅野・軽賀)☆[61] (加賀) 応安5.8.29 1372 〔祇園執行日記〕廿九日‖一、萱野村事、烈参富樫許〈在京、宿/八坂〉、忩令内談、可申左右之由返答、申次ゝゝ入道、/烈参衆、卿権大別当〈晴厳〉・民部阿闍梨〈少別当/圓春〉、宮籠四人、 加能史料南北朝Ⅱp.464
祇園執行日記
赤濱村 (加賀)
倉月庄
康暦2.6.1 1380 〔足利義満寄進状案〕寄進 大福田宝幢寺/摂津国多田院内上下阿古谷村・加賀国倉月庄内松寺・赤濱両村事、/右、所寄附之状如件、 加能史料南北朝Ⅲp.153
鹿王院文書
松寺東村☆[62]
松寺西村☆
(加賀)
倉月庄
永享7.3.- 1435 〔宝幢寺・鹿王院領目録〕宝幢寺領/加賀国倉月庄内松寺東西・赤濱村/播磨国安田庄領家職半済分/但馬国鎌田庄地頭・領家一円/土佐国吾川山地頭・領家一円/摂津国吹田西庄内倉殿地頭職/山城国乙訓郡大覚寺 加能史料室町Ⅱp.530
鹿王院文書
玉鉾村☆
千木村☆
(加賀) 康正2.5.22 1456 〔足利義政御判御教書案〕【玉戈】近江国林村散在、伊勢国田村散在、同国吉澤・吉末御厨、若狭国東松長庄参分壹〈不知行〉、加賀/国倉部村〈守護押領〉、同国玉鉾村四分壹〈守護押領〉、同国千木村〈守護押領〉、同国興保幷預所職〈守護押領〉‖早任当知行之旨、大舘兵庫頭教氏領掌不可有相違之状如件、 加能史料室町Ⅳp.27
建内文書
得蔵村 (加賀) 文正元.-.- 1466 〔臨川寺文書目録〕得蔵村一巻〈文正元年分〉、 大野庄一巻返合富都寺代/已上、十巻 大野庄所々荒不作目録 一巻〈文明十八年記写、/明応八年〈己/未〉興行之、/案文一本在政所、庄主殊全都寺ニ渡之、〉 加能史料戦国Ⅰp.216
天龍寺文書
指江村 河北郡
英田庄
文明6.12.24 1474 〔加賀守護富樫政親書下〕加州能美郡上土室幷河北郡英田庄内指江村等事、如先々知行不可有相違之状如件、 加能史料戦国Ⅰp.219
北村市英氏所蔵文書
大野村☆ (加賀) 文明13.5.28 1481 〔政所賦銘引付〕【大野】一、土岐長澤治部少輔明長 ― 五 廿八、/加州大野村小中左衛門五郎ニ、文明十一閏九あつけ置三百貫文事、無沙汰之間、/請人木越光徳寺・かなうらの平太郎両人可返弁之由乍申定、猶難渋云々、 加能史料戦国Ⅰp.441
政所賦銘引付
鉢伏村☆ (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄鉢伏村名別公事銭等納帳〕鉢伏村御帳‖真末名 度々不作引 四百卅七文直分/月充 壹貫四百文/段別 四百八十文/兵粮米 四斗六升/検住 貳貫四十文/来納 五百文/早初三升 節料三升七合五勺 加能史料戦国Ⅲp.382
賀茂別雷神社文書
新保村 (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄新保村名別公事銭等納帳〕新保村御帳‖犬丸名 度々不作引定 百文直分/四月物 定七百五十文/検住 定壹貫五百卅文/秋分 定三百文/十月物 定三百文/来納 定壹貫八百五文/兵粮米 定三斗/苅方兵粮米 定貳斗六升 加能史料戦国Ⅲp.389
賀茂別雷神社文書
谷村☆ (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄谷村名別公事銭等納帳〕谷村御帳‖◦谷宮名 ◦貳百二文直分/七月ヨリ/月充 貳貫十六文之内 〈三百九引/定壹貫六百九十四文〉/御服 貳貫二百文之内 〈九百五十文引/定壹貫二百四十七文〉/検住 貳貫六百八十文内 〈八百卅文引/定壹貫八百五十文〉 加能史料戦国Ⅲp.394
賀茂別雷神社文書
日角村☆[63] (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕日角村御帳‖金丸名之不作引/月充 定三百九十五文/来納 定二百六十二文/検住 定六百七文/段別 定七十七文/絹之代 定三百文/糒之代 定二百十八文/兵粮米 定八升四合 加能史料戦国Ⅲp.401
賀茂別雷神社文書
上棚村 (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕上棚村御帳‖宮丸名 度々不作定 廿文直分/月充 定百七十九文/段別定貳百文/検住定百四十文/来納 定六十九文/以上、五百九十壹文 直分廿文 加能史料戦国Ⅲp.405
賀茂別雷神社文書
金津村 (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕金津村御帳‖◦景守名 九十六文 直分/月充 度々不作引定 壹貫五百文 成/段別 同引定 百卅三文 成/検住 同引定 四百六文 成/来納 同引定 参百文 成/兵粮米 壹斗三升三合 成/早初米 引定 壹升三合四勺 成 加能史料戦国Ⅲp.417
賀茂別雷神社文書
横山村☆ (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕横山村御帳‖則松名 百貳文 深谷宗兵衛拘、/直分/月充 貳貫文之内 〈壹貫百八十文度々不作引/定八百十六文〉/段別 六百四十八文内 〈三百文度々引/定三百四十八文〉/勘料共/検住 壹貫五百文之内 〈三百文度々引/定七百五十文〈但一貫貳百文たるへきか〉〉 加能史料戦国Ⅲp.425
賀茂別雷神社文書
内高松村☆ (加賀)
(金津庄)
延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕内高松村御帳‖千代丸名 度々不作引 九十五文直分/月充 定壹貫四百四十六文/段別 定四百廿八文/検住 貞四百五十七文/来納 定八百五十二文/兵粮米 定四斗貳升八合 加能史料戦国Ⅲp.434
賀茂別雷神社文書
高松村☆[64] (加賀) (金津庄) 延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕高松村御帳‖徳王名 度々不作引定 六十文直分/月充 定百四十七文 成/段別 定百八十文 成/検住 定百文 成/来納 定四百四十五文 成/兵粮 定壹斗六升九合 成/坂代 定四百六十文/三十三文 他参 百廿五文 カリ代 加能史料戦国Ⅲp.439
賀茂別雷神社文書
與知村 (加賀) (金津庄) 延徳3.9.5 1491 〔金津庄村名別公事銭等納帳〕與知村引付‖◦末永名分 直分四百十文 度々不作引定/御服 定壹貫四十文/月充 定三百八十七文/段別 定貳百七十貳文/検住 定貳百八十九文/来納 定七百六十四文/御定器 壹貫文 加能史料戦国Ⅲp.450
賀茂別雷神社文書
中大浦村☆[65] (加賀)
倉月庄
明応9.11.13 1500 〔室町幕府奉行人連署奉書〕知行分加賀国倉月庄内中大浦村事、富樫介入道押領之条、先立御成敗之処、于今難渋/云々、太無謂、所詮重而被成奉書之旨、被存知候、弥可被全領知之由、所被仰下也、仍/執達如件、 加能史料戦国Ⅴp.94
美吉文書
福久村☆ 河北郡
井家庄
永正5.7.23 1508 〔白山禅頂私記〕右此抄者、加賀州河北ノ郡井家庄領家方福久村兼遠之氏寺千手院ニ住シ、獨リ北牖ニ/向テ日ヲ送リ、徒ラニ雨日ニ眠テ時ヲ移ス、折節白山ノ霊瑞ヲ仰キ、観音ノ大悲ヲ念/シ、書物少々眠リノヒマニ拝見スルニ、大権埵ノ願力、和光同塵ノ誓約、慈悲深重ノ/御ハカリコトアリカタク覚ヘテ、願クハ神威末代ニ耀ヤカシ、 加能史料戦国Ⅴp.356
白山禅頂私記
俵原村☆ 河北郡 大永5.9.17 1525 〔伊勢貞忠書状案〕加州河北郡内俵原村事、京著為厳重之儀之処、近年一向不及其沙汰之条、申付被官人服/部民部丞、只今在所へ相觸候、於自然之儀者、被得其御意、堅被仰付京納、無相違候者/尤以可為祝著候、 加能史料戦国Ⅶp.294
書札之御案文
金浦村 (加賀) 天文4.11.20 1535 〔賀州本家領謂付日記〕十一月廿日/一、近衛殿御領 安江保〈錯乱以後/御不知行〉・金浦村〈上様/御料所〉折紙御所望候、/十一月廿三日可申付由申候、 加能史料戦国Ⅸp.22
賀州本家領謂付日記
下若松村☆[66] (加賀)
倉月庄
天文5.10.22 1536 〔天文日記〕一、摂津守知行奉公衆、倉月庄内安江村・奥村・粟崎村・直江村・中大浦村、以上五个所也、/此在所へ可然様に申付てと被申候〈成奉書〉、/一、町野左近大夫将監〈奉公衆〉知行、安田保・下若松村・堺分・長屋村、此所可然様申付て/と被申候〈成奉書〉、/一、海老名次郎〈奉公衆〉知行長屋村内宝光寺分、可然様ニ申付てと被申候〈成奉書〉、 加能史料戦国Ⅸp.157
天文日記
下多禰村 (加賀) 天文5.12.10 1536 〔天文日記〕一、飯尾大和守知行〈此方之儀取次之/奉行、近江子也〉、下多禰村・大桑・上石浦・笠舞等〈號飯尾分〉、申付候へ/と被申候〈成奉書〉、彼大和守ハ、上意為御使九州へ下候間、大和守代官同名弥八、又/同名彦左衛門方より申され候、 加能史料戦国Ⅸp.183
天文日記
宇多津村 (加賀)
下若松庄
天文6.4.28 1537 〔天文日記〕一、従奉公之町野方、知行去年被申候下若松庄之事、領家職ハ烏丸知行候、地頭職ハ町/野知行候間、申付てと被申候‖又下若松庄内宇多津/村田地六段之事、町野祖父女子為譲扶助候処ニ、其子理不尽ニ令沽却候、此儀者いか/に沽却候といふとも、女子死去候者、即町野へ返付大法候間、是も申付てと被申候、 加能史料戦国Ⅸp.244
天文日記
藤六村
小豆澤村
(加賀) 天文7.9.9 1538 〔天文日記〕一、従伊勢守〈貞孝〉、為御料所、以奉書、森嶋分・徳久〈奉書ニハ不見候、/書状ニ有之、〉〈是ハ去々/年申付、〉・六个村〈長嶋・宮武・野田・/高畠・藤六・小豆澤〉/等事、対白山長吏、先年雖申談之、相違之条、令契約相国寺興禅軒云々、此等之通/可申付之由候、此六个村者、今度始而被申候也、 加能史料戦国Ⅹp.86
天文日記
長井村
奥野村
(加賀) 天文8.10.10 1539 〔天文日記〕一、大館伊予被申、御料所七个所事ニ就て、以五个条被申候、/一ニハ、道西公米難渋之処、自此方依申付之、且納候、当年事、猶可申付之由候、一、/長井村ニ行重・藤次郎、去年分一向不致沙汰之、/一、自郡懸矢銭幷殿原ヲ出へき由申事、一、毎年過分損免申之事、一、奥野村ニ宝浄/寺ト云祈願所候、 加能史料戦国Ⅹp.214
天文日記
若松村☆ (加賀) 天文10.8.25 1541 〔室町幕府奉行人連署奉書写〕家領加賀国佐見保幷打越等事、当知行之処、近年有名無実云々、以外次第也、然大館左/衛門佐晴光知行分除若松杉松村、如先々可被全領知之由、所被仰下也、仍執達如件、 加能史料戦国Ⅺp.60
将軍代々文書
八田村☆
大浦村☆
河北郡 16C.4.1 〔本願寺実如書状〕為志銀子三枚到来、遠路懇志之程、難有覚候、就其当流の安心趣といふハ、更に餘の/方へこゝろをふらす、唯もろ〱の雑行雑善の心をふりすてゝ、一心一向に弥陀に帰命/し奉る人々ハ、悉皆極楽に往生すへき事、努々疑あるましく候‖加州河北郡/八田/大浦/千木/木越/光徳寺/廿八日講中/(モト包紙ウワ書)加州河北郡四村/光徳寺 加能史料戦国Ⅶp.259
光徳寺文書
横根村☆[67] 河北郡 16C 〔蓮如上人御一期記〕一、ソノ初比蓮祐禅尼往生ノ砌ナリ〈実如上人御/母儀〉、其比聴聞ノカタ〱ハヤ多出来アリ、近/国路次中ノ人々モ志アリテ、所々御トオリニアマタ所ノ御逗留ノ儀モアリ、其比加賀国河北/郡横根村ト云所ニ三个日蓮如上人ヲ留申侍ケルニ、横禰ノ乗光寺ト云坊ニ光臨アリ、御法/談タヒ〱アリ、 加能史料戦国Ⅰp.240
蓮如上人御一期記
二又村 河北郡 16C 〔拾塵記〕一、二又村坊〈賀州/河北郡〉者如乗建立、〈文明/元歟〉年中也、號本泉寺ト者、瑞泉ヲ以テ為本號也、‖賀州石川郡河内庄劔村之内上院〈下院ト/云ハ下也〉清澤ノ坊ハ、本泉寺蓮悟開基也、永正五年秋/八月比ヨリ近所ノ輩申スヽムルニヨリ建立シテ、永正十年五月朔日ヨリ実悟居住ス、 加能史料戦国Ⅳp.234
拾塵記
白尾村 加卜郡 16C 〔方便法身尊像〕方便法身尊形□□□□/加卜郡英田保白尾村/願主□□□ 加能史料戦国Ⅶp.256
龍賢寺所蔵

所属郡不明

郷(里)

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
若林郷 享徳4.2.22 1455 〔管領下知状〕山城国下上野庄・丹後国芋野郷・伊勢国東禅寺・加賀国若林郷・美作国古呂々昆郷幷若/代・摂津国江口関代官職・能登国土田保公用百貫文・近江国須江庄・同国賀茂庄内名田/職等事、早任相伝当知行之旨、飯尾新左衛門尉元領掌不可有相違之由、所被仰下也、 加能史料室町Ⅲp.418
飯尾文書

年月日 西暦 原     文 出  典
若林村 永享3.6.27 1431 〔足利義教御判御教書写〕加賀国若林村事、所充行飯尾大和守貞連也者、早守先例可致沙汰之状如件、 加能史料室町Ⅱp.383
飯尾文書
神蔵寺村 天文5.10.4 1536 〔天文日記〕一、山門東塔院神蔵寺領加州神蔵寺村之事、可申付之由申来候、 加能史料戦国Ⅸp.156
天文日記

  1. 文治2年(1186)9月5日の源頼朝下文案(平松文書)によると、当郷の郷名を継承する額田庄(現加賀市)について「件庄加納八田額田両郷」とあり、額田郷が八田郷と隣接することがわかるので、八田郷の遺称地である現小松市矢田町・矢田野の町に隣接する同市額見町を当郷の遺称地とみるべきであろう(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  2. 『蔭凉軒日録』延徳2.11.4条「雲門庵領加賀国山代庄忌浪郷領家方事、」 加能史料室町Ⅳp.69
  3. 弓波村。
  4. 大菅波村・小菅波村。
  5. 南江村。
  6. 江沼郡に存在したとされる郷の一つとして諸田郷が知られ、現加賀市域に存在した可能性が強いとされてきた。近年の研究によると、唯一の史料である大治2年(1127)8月日の「江沼郡諸司等解」にみえる「諸田郷司」と読まれてきた部分は「額田郷司」と判読すべきと考えられる(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  7. 矢田村。
  8. 山代村。
  9. 上福田村・下福田村。
  10. 三村。
  11. 大聖寺町。
  12. 萩生村。
  13. 直下村。
  14. 大畠村・千崎村。
  15. 作見村。
  16. 尾中村ヵ。
  17. 加茂村。
  18. 桂谷村。
  19. 保加村。
  20. 額見村。
  21. 大分校村・小分校村。
  22. 滝原村。
  23. 須谷村。
  24. 南江村。
  25. 奥谷村。
  26. 栢野村。
  27. 郡家庄:現根上町南東部から寺井町西部および小松市北端部一帯に比定される皇室領庄園。領家職・地頭職ともに勧修寺(現京都市山科区)が保有、板津庄とも称した。古代の能美郡衙(郡家)縁辺の開発領が庄領となり、郡家の故地を領域に含んだことが庄名の由来と推定される(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  28. 長野田と書いて「ながだ」とも発音した。中世には中野田村(長野田村)と野田村とを含む長野田郷が存在した。また中野田村内に領家方の清真・正重・包清の各名があった(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  29. 西任田村・東任田村。
  30. 上開発村・下開発村。
  31. 当初は越前国江沼郡、弘仁14年(823)の加賀立国以降は同国能美郡に属した(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  32. 加賀国 得橋郷 同郷内佐野・牛嶋村「南禅寺寺領目録」『南禅寺文書』応永10.⓾.- 加能史料室町Ⅰp.139
  33. 佐野村。
  34. 連大寺村。
  35. 上開発村・下開発村。
  36. 大長野村・小長野村。
  37. 杉森村。
  38. 坪野村。
  39. 白山新保村。
  40. 下麦口村・上麦口村。
  41. 永禄年間の洪水により退転、村民は橘村(橘新村)へ移住して荒蕪地を開拓し村を再建した(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  42. 荒谷村。
  43. 上島田村。
  44. 下安原村。
  45. 東米光村。
  46. 下安原村。
  47. 粟崎村。
  48. 諸江村。
  49. 中世の金剣宮の寺家・在家が発展した門前集落とされ、南の白山本宮の門前市をも含めて町場を形成していたと考えられる。「白山之記」・神官上道家系譜(白山比神社文書)に白山本宮の三鳥居の所在が記され、内鳥居と中鳥居で区切られた地が中世の剣と想定される(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  50. 北弘岡村。
  51. 畝田村。
  52. 福留村。下柏野村の南に位置。天保郷帳の村名肩書に「古者福富村」とあり、天和2年(1682)の当村在住福留組十村間兵衛の署名に「ふくとみ村」とある(改作所旧記)。
  53. 矢木荒屋村。
  54. 野々市村。
  55. 中世以降、石川郡所属ヵ
  56. 千田郷。暦応4.8.7(1341) 〔足利直義外題安堵状〕一、西山穢土・西芳両寺事/西芳寺領分、備後国重永別作内新庄・和泉国下条郷〈但先段雖讓/能直除之〉・山城国円観寺西九条田/壹町貳段、次穢土寺領分、加賀国倉月庄内近岡郷内月峯五町・千田郷内供料田貳町・/同月峯参町・末延名田地・木越村千得名壹町・月峯貳町・善遵田貳町・松尾田陸段/〈坪西山/在之〉、/右於両寺者、為惣領能直檀那、可致興行之沙汰之状如件、『加能史料』南北朝Ⅰp.219「美吉文書」
  57. 中世以降、石川郡所属ヵ
  58. 上田上村。
  59. 南森下村・北森下村。
  60. 北中条村・南中条村。
  61. 狩鹿野村。
  62. 松寺村。
  63. 内日角村。
  64. 外高松村。
  65. 大浦村。
  66. 若松村。
  67. 南横根村。