能登国

提供:「ムラの戸籍簿」データベース

作成者:事務局

郷村名郡別世紀別初出表

郷村

世紀
郷(里)
7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計
合計 4 1 1 4 5 4 4 23 1 1 19 27 21 145 214
羽咋郡 1 1 3 5 6 10 4 45 65
能登郡 2 1 1 1 5 1 8 3 10 33 55
鳳至郡 1 3 1 1 2 8 4 14 6 61 85
珠洲郡 1 3 1 5 1 1 1 5 8
所属郡不明 1 1



概要

概要

養老2年(718)5月2日、越前国羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡を割いて設置された。日本海に突出する能登半島全域を占め、南西は越前国、南東は越中国に接する。中世能登郡は鹿島郡と称されるようになる。10世紀後半から11世紀初めにかけて郡郷が解体され、紀伊国名草四院のように国衙によって行政単位の院が編成されたと推定される。
12世紀末葉は平氏一門の知行国であったが、平氏打倒を目指す木曽義仲に呼応し、反乱的状況が生じていた。義仲が没落すると、北陸道諸国は鎌倉幕府の支配下に置かれ、鎌倉殿勧農使の比企朝宗が国務を管掌し、次いで北条一門の名越氏が能登守護に補任された。承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文によれば、四郡で約80ヵ所の荘園・公領の分布が知られる。珠洲郡若山庄(公田数500町)、鳳至郡町野庄(公田数200町)、羽咋郡大泉庄(公田数200町)など、鳥羽院政期に大規模な荘園の成立がみられた。一方、国衙周辺の鹿島郡では小規模な公領が濃密に分布していた。
南北朝期の守護には羽咋郡出身の吉見氏が起用されたが、南朝方勢力も存在し、加えて越中桃井勢の進攻などもあって、激しい戦闘が展開された。やがて足利一門の畠山基国が守護を兼務し、応永15年(1408)、その次男満慶が兄の満家から一国守護職を分与され、庶流能登畠山氏(守護畠山匠作家)が分立した。以来、満慶・義忠・義統の三代にわたって将軍の御相伴衆となり、守護代遊佐氏が鹿島郡八田郷府中の守護所で分国経営の実務に当たった。
戦国期には畠山家の内訌により、領国の主導権をめぐる対立抗争が生じ、天文20年(1551)には、遊佐続光・温井紹春(総貞)・長続連・三宅総広・平総知・伊丹総堅・遊佐宗円の重臣七人からなる畠山七人衆が領国の主導権を掌握し、大名義続の権威は失墜した。権力の回復を目指す畠山氏は、越後長尾景虎(上杉謙信)の助援を得て、温井一党を加賀に退かせることに成功した。畠山義綱政権の再建がはかられ、専制的立場が強まったが、重臣層の長続連・遊佐続光らが反発し、同9年9月義綱は能登から追放された。
天正5年(1577)9月、上杉謙信の進攻により七尾城は陥落し、能登畠山氏は滅亡した。能登は上杉氏の支配を受けることになったが、織田信長の支援を得て能登奪回をめざす長連竜の攻略や温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣が離反して織田方に転じたため、上杉氏は撤退を余儀なくされ、能登は織田氏の勢力下に入ることになる。信長は柴田勝家を北庄に鎮将とし、佐久間盛政を加賀の金沢に、佐々成政を越中の守山に配し、やがて同9年3月には前田利家・菅屋長頼・福富行清の三将を能登に進駐させたが、のち能登一国の支配は利家の手に委ねられることとなった。しかしこの形勢は翌10年の本能寺の変により急変した。利家は古社寺に保護を与え、各地の中核的な長百姓に扶持を与えて懐柔した。古社寺に対する政策は一向一揆を多分に意識したもので、前田氏は歴代この政策を引継ぎ、一向宗とも妥協して領民には真宗の信仰が厚く残った。また扶持百姓は地域の治安維持・開墾奨励のために任じたものであるが、やがて加賀藩特有の十村制度に発展した。さらにこの頃検地が行われており、羽咋郡福野村・鹿島郡熊淵村の天正10年の検地帳がある。また、利家は同11年に加賀の河北・石川二郡を与えられ、金沢に進出することになった。なお文禄2年(1593)、利家の次男利政が能登二一万五千石を領し、慶長4年(1599)には利家の養老封のうち口郡一万五千石も分与されたが、関ヶ原の合戦後利政は除封され、能登の前田領は兄利長領となった。

参考文献


典拠史料

『加能史料』奈良・平安1、平安2~4、鎌倉1,2、南北朝1~3、室町1~4、戦国1~17、補遺Ⅰ

凡例


郷村表

羽咋郡

郷(里)

大海・荒木・高家・羽咋・岡本・邑知・都知

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
荒城郷 羽咋郡 天平勝宝2.5.18 750 〔知識人貢進文〕【荒木】道君廣成〈年廿一/越中国羽咋郡荒城郷戸主道君堅石戸口〉 加能史料奈良・平安Ⅰp.296
正倉院文書
湊郷 (羽咋)
白井郡
正平4.3.15 1349 〔後村上天皇綸旨案〕能登国白井郡内湊郷南北地頭職、為勲功賞可令知行者、天気如此、悉之以状、 加能史料南北朝Ⅰp.391
南行雑録
藤懸郷 (羽咋) 永享5.7.4 1433 〔足利義教御判御教書〕南禅寺語心院領能登国藤懸郷・越中国沼保半分・若狭国恒枝・同大興寺・山城国山科内/柳殿・六条大宮地〈丈数見/本券〉等事、任証文幷当知行之旨、寺家領掌不可有相違之状如件、 加能史料室町Ⅱp.476
南禅寺慈聖院文書
小山郷 (羽咋)
土田主
文明18.10.- 1486 〔土田庄公用銭社務請取案〕方々請取方/四貫文 金津公用/貳貫文 草畠分/参貫五百九十四文 小山郷九日田分/三斗延口九升〈七升五合法〉、 代五百卅三文 同郷正税/七斗五升延口壱斗五升〈和市同前〉、/代壹貫貳百文 土祭田分/以上、拾壹貫三百廿七文引之、 加能史料戦国Ⅱp.256
賀茂別雷神社文書
矢田郷☆ 羽咋郡 明応-.5.10 1492~1501 〔方便法身尊像裏書〕□□□願寺釈蓮如(花押)/明応□〈丙□〉□五月十日/本□寺□徒能州/□便□□□像/羽咋郡矢田郷府中/願主釈□□ 加能史料補遺Ⅰp.331
常福寺所蔵

年月日 西暦 原     文 出  典
酒見村☆
藤懸村
鉇打村
得田村☆[1]
羽咋郡 承久3.9.6 1221 〔能登国四郡公田田数目録案〕能登国/注進国中四郡庄・郷・保公田々数目録□/一、羽咋郡‖同院内酒見村 貳町八段壹 健保貳年立券状/藤懸村 本ハ十五丁/四町壹段 健保貳年立券状/鉈打村 本三丁五反二/六町五段二/都智院 本五丁四反九/九町七段五 建治元年(ママ)検注田定/土田庄内得田村 七町七段七 文治四年立券状 加能史料鎌倉Ⅰp.268
森田良美氏所蔵文書
泉村 (羽咋)
大泉北庄
弘安5.6.15 1282 〔堀川阿道避状案〕能登国大泉北庄内泉村年貢米国本貳拾肆斛〈加御寺米/五石定〉・西宮田五段、任故殿御譲状、阿道/一期之間、無相違充賜之上者、於御分之所々者、全無悕望候、仍為後日勒状言上如件、 加能史料補遺Ⅰp.74
洞院家廿巻部類
上村 (羽咋)
(土田庄)
永仁6.12.17 1298 〔足利貞氏補任状写〕下 能登国土田上村/定補 地頭代職事/長杢左衛門尉/右以人、為彼職、可令領知之状、所仰如件、 加能史料補遺Ⅰp.80
長家文書
しのたのむら(志良田) [2][3] (羽咋) 正和元.8.25 1312 〔尼しんせう譲状案〕のとのくにとくたのうち、しのたのむらのちとうしきのうち、へハしふう入たうかミや/うてんはく・やしきハ、さきの大ゆきとのにゆつりたく候ぬ、田二たん三、したち五百/拾そくかりにて候、 加能史料鎌倉Ⅱp.392
得田文書
鮎上村

階田村
(羽咋)
(富来院)
正和3.5.- 1314 〔雑掌了覚申状写〕能登国富来・豊田両御厨領主藤原氏女雑掌僧了覚謹言□、/欲早賜 令旨訴申関東、当御厨内鮎上・酒見両村地頭尼浄智、階田村地頭富来左衛門/三郎行倫、鉇打村地頭国分四郎〈不知/実名〉等、打止乃貢濫妨所務間事/右当御厨者、為氏女開発重代領主、令備進 太神宮、上分物令一済御年貢者也、 加能史料鎌倉Ⅱp.400
吉続記裏書
兵庫村☆ (羽咋) 建武5.2.13 1338 〔平行兼寄進状〕敬白/観世音菩薩御宝前、奉寄進所領能登国湊保南方兵庫村内田三百苅・屋敷壹宇〈在所諏訪/御宮前〉事、/右田・屋敷者、以僧恵勝奉憑祈祷師匠之間、於彼田・屋敷者、限永代奉譲与之処也、 加能史料南北朝Ⅰp.142
宝泉寺文書
松本村 (羽咋) 応安3.2.18 1370 〔能登守護吉見氏頼禁制〕能登国羽咋湊保北方内田中田屋敷・同所松崎町田地・同所松本村内田地・同所惣相宮上/田地・同所石町田屋敷〈須賀小四郎入道性海・/同次郎入道兼清〉、寄進之地等事、軍勢・甲乙人等、不可致乱入/狼藉於之状如件、 加能史料南北朝Ⅱp.412
永光寺文書
滝谷村 (羽咋) 応安8.2.24 1375 〔日乗譲状写〕譲与能登国甘田保魚(瀧ヵ)谷村法華堂事、/合壹宇者/右彼御堂、同国中之信者並加賀国檀那之事、依為三位阿闍梨御房一弟子、一人不残譲渡/之処実正也、 加能史料南北朝Ⅲp.3
妙成寺文書
※要検討文書
町居村☆
草木村☆
大瀧村
日下田村
(羽咋) 永和1.8.25 1375 〔棟札〕奉造立松尾大明神壹間半四方宝殿 永和元年八月廿五日/(裏銘、追筆)「松尾明神宮/神主/松尾寺/□□□□□/氏子町居村/同草木村/同大瀧村/同日下田村」 加能史料南北朝Ⅲp.17
松尾神社所蔵棟札
伊禰乃野村 (羽咋) 応永17.9.4 1410 〔管領施行状〕能登国得田保内壹分地頭職幷伊禰乃野村地頭職・白野田村名田・高畠庄内小柴村壹分地/頭職・土田庄内上村壹分地頭職事、早任去月十一日御判之旨、可被全得田勘解由左衛門/入道章光所務之由、所被仰下也、仍執達如件、 加能史料室町Ⅰp.280
古文書纂
千路村☆ (羽咋) 応永24.10.8 1417 〔某家政所下文案〕政所下/気多社免田事、/在所千路村定持職内三反幷在家屋敷等事、/右、件田畠・在家等者、楊田宮司重代相伝之地也、然間任社家理運、如元楊田宮司俊次/進退領掌不可有相違者也、 加能史料室町Ⅱp.35
気多神社文書
駒前村 (羽咋) 文安3.7.- 1446 〔菅原荘算用状〕一、菅原御庄三年一請会算用状之事、/合田数四拾三町六段三半〈預所散田加定、/但正作一町七反引〉、/分銭四拾貳貫七百六十三文/幷駒前村分/田数拾町貳段五/分銭拾貫五十文/都合田数五拾三町八段八半 加能史料室町Ⅲp.192
北野社家引付
新保之村☆ (羽咋) 文安5.7.- 1448 〔永光寺領坪付目録写〕永光寺領若部保惣田畠幷坪付目録帳之事‖一、筑後作 千五束苅之内、二百苅 八幡神田御祭礼〈八月十五日〉/定田数八百五束苅/三百苅〈在所〉豊後作澳 二百苅〈在所〉新保之村松下/百苅〈在所〉新保之澳 百苅〈在所〉高五郎作 加能史料室町Ⅲp.243
永光寺文書
中川村☆
二口村☆
串田村
富来村
甘田村
(羽咋) 大永6.10.- 1526 〔一宮社務職年貢米銭納帳〕一宮社務職御年貢米銭納帳‖他人知行分/九百廿文 中川村〈三郎九郎〉‖三百文 二口村‖九百八十文 あせち兵衛/小田中村‖貳貫参百文 堀松/串田村〈かつさ〉‖壹貫百文 とき/富来村七个‖御帳之内、金丸地頭分代官沙汰分、/拾五貫六十五文、三町六段之地、甘田村ヨリ〈金丸代官取沙汰御年貢也、/霜月鵜祭ノ役〉、 加能史料戦国Ⅶp.343
気多神社文書
太田村☆ (羽咋) 享禄4.7.吉日 1531 〔一宮惣分目録帳〕□□貳俵貳斗分目斗定 太田村政所/此内、不動院江五俵納、竈殿修理分也、/貳拾五俵〈しほ東町、御供米、二月之役、/此内貳俵、権々行事納〉 志雄東町/代官/此外、石田年貢三俵、大惣行事納、御供米之外也、 加能史料戦国Ⅷp.302
気多神社文書
御内村(箕打)☆
元女村☆
(羽咋) 天文3.3.24 1534 〔黒川忠兵衛尉判物〕東名城寺山之事/此間御内村として、あらそいありといへとも、おうち六郎左衛門尉殿金吉之御判之すち/めにまかせて、元女一村へ、如先々あつけ度候処也、全しはひあるへく候者也、仍状如件、 加能史料戦国Ⅷp.346
干場文書
別所村 (羽咋) 天文4.4.- 1535 〔棟札〕(表)奉造替能州羽咋郡直海保尊神殿諸願成就祈所/于□天文四〈乙未〉四月□□ 願主国澤六郎兵衛尉藤原徳長□□/(裏)大工 大河吉右衛門/当所神主別当 別所村 鍵取師十兵衛/小工 沼平七 加能史料戦国Ⅸp.5
瀬戸比古神社所蔵
かい(貝)田むら☆
大西むら☆
(羽咋) 天文10.4.吉日 1541 〔気多社諸職三大業役等注文〕一、公文職之内、毎年役之事/一貫七百九十文 富来地頭方百姓さた、/一貫文 かい田むら/四百文 大西むら/二百拾文 徳田分さかもと/二百文 なかいつミ分/以上、三貫六百文、 加能史料戦国Ⅺp.28
気多神社文書
福野村☆
谷村
福井村☆
(羽咋) 弘治2.9.13 1556 〔棟札〕九俵/福野村 一俵川端左近〈七升五合尊念女/五升谷村左近五郎‖仏光坊 中将公百疋・三俵谷村経雲/花蔵院/柱二本大さへもん‖此外米銭・紙袋等在之、/惣持院 大行坊 二位公 七俵/福井村 加能史料戦国14p.19
意冨志麻神社所蔵
大嶋村☆ (羽咋) 永禄8.8.27 1565 〔棟札〕福野村かち大くき・小くき之代八百文、五丁之事、以上三百五はい也、/これハ福野村・大嶋村・福井村寺家・社家・旦那十口トモニ仕候、此作りやう/参貫七百四十五文、是ハ三月・九月両月之とうおなをしタマイ、セマチ/ウリソロテ、此サクリウニ仕候、 加能史料戦国14p.19
意冨志麻神社所蔵
直海村☆ (羽咋) 弘治3.7.28 1557 〔畠山義綱書下〕就籠城候、直海村之内宝泉寺領左京幷アセチ分共仁、永代寄附候、向後他国使僧等義、/可令馳走候、仍状如件、 加能史料戦国14p.44
龍門寺文書
(押水)免田村☆ (羽咋) 永禄2.5.15 1559 〔三宅慶甫寄進状〕奉寄進御供米之事/合拾貳俵者、/右、為祈念、令寄附候畢、但以押水免田村之年貢之内、毎年八月中ニ可有神納候、不可/有相違者也、仍永代寄進状之旨如件、 加能史料戦国14p.108
気多神社文書
河内村☆
西谷村☆
(羽咋) 永禄2.9.25 1559 〔棟札〕(表)貳斗国分福五郎殿 貳斗新保殿 五十文江尻與三兵衛尉 五升小太/□□□□□□□□壹俵直海殿 壹俵河内・西谷両村ヨリ、 百文南部/奉加御人数之事 四十文国分佐次右衛門殿 五升泉太郎殿 五十文菅‖□袋□□山田村ヨリ、 加能史料戦国14p.116
藤津比古神社所蔵
志指見村☆[4] (羽咋) 永禄4.12.7 1561 〔馬淵綱重証状〕永光寺領志指見散在分作職、任先例、志指見村次郎左衛門尉ニ申付候間、従来年壬戌之/秋可有御直納候、定御年貢之儀、為領主・代官、其綺有間敷候、但定候年貢之内、一粒/も未進仕候者、散在分之作職・田畠・屋敷共ニ永代被召放、寺家之可為御支配候、 加能史料戦国14p.201
永光寺文書
若部村
本江村☆
(羽咋) 永禄5.4.9 1562 〔遊佐続光判物写〕当寺領若部・本江両村之百姓等、若於属他之被官者、任先例為寺中、堅可被加成敗者也、/仍如件、 加能史料戦国14p.241
中興雑記
(押水)上田村☆ (羽咋) 永禄12.6.9 1569 〔温井景隆判物写〕今度大坂江御登儀、神妙候、就其本意上、押水上田村之内、以散田廿俵地申付候、猶以/可忠節者也、 加能史料戦国15p.184
光専寺文書
竹津村 (羽咋) 天正2.3.13 1574 〔桜井基恵放状案〕□代おかへし申候田地之事/合竹上野田地年貢壹斗畠地子□□□/所おかへし申候処、実正也、此田地之義、我□子細之儀候ておかへし申候間、子々孫々/におゐて□□かけ申間敷候、自然壹斗五升年□不沙汰候ハヽ、何時にてもとりあけ可申/候、‖竹津村あき人/九郎二郎との 加能史料戦国16p.128
気多神社文書
志ほ村(志雄)☆
すかハら村(菅原)☆
すきのや村(杉野屋)☆
尾長村☆
千田村☆
いしの町村(石野)☆
円井村☆
ほり(堀)松村☆
千代町村☆
よし(吉)田村☆
とくらく村(徳楽)
しはかき村(柴垣)☆
つちはし村(土橋)☆
あおふ(粟生)☆
大町村☆
上江村
(羽咋) 天正5.11.1 1577 〔気多社免田記〕一宮指出之事 神官方‖志ほ村ヨリ 五十俵 三宅大しやう殿・同九郎衛門殿入くミ、/すかハら村ヨリ 二十俵 大すミ殿分□□□、/すきのや村ヨリ 三十二俵九升 大すミ□□入くミ、/中川村ヨリ 三十俵・壹貫三百八十文 二本松将監殿御分、/尾長村ヨリ三十俵 八代越中守殿分入くミ、/千田村ヨリ 二十俵 いたミ殿分入くミ、/金丸村ヨリ 三十俵 三宅殿分、/のとへ村ヨリ 四十四俵・斗二ツ 藤王殿分上分、/ひかしはゝ村ヨリ 十五俵・壹貫二百六十五文/たけへ村ヨリ 十俵 しやうせんし分、/いた村ヨリ 六表/二口村ヨリ 九俵 長きの守殿分、/いしの町村ヨリ 十五俵 温井上野殿分、/あまた村ヨリ 二十俵 大ねんし分、/久江村ヨリ 十貫文 神保殿分、‖此外ニ在々諸々小役等幷二月御神幸時御神役有之、/衆徒分‖円井村ヨリ 四十俵七升 あまの殿入くミ、‖ほり松村ヨリ 十五俵 温井殿分、‖千代町村ヨリ 二十俵 同、/よし田村ヨリ 十五俵/とくらく村ヨリ 十俵/あふのミ村ヨリ 三十五俵七升五合・壹貫六百文、/さミ村ヨリ 二貫文/なふミ村ヨリ 七貫文/しはかき村ヨリ 壹貫文‖つちはし村ヨリ 三俵二斗/あおふ新保村ヨリ 六百文/久江村ヨリ 十貫文 二月役、/小竹村・みしろ村村ヨリ 八貫文 同、‖大町村ヨリ 五俵壹斗/上江村ヨリ 七俵二斗五升/此外、在々諸々ヨリ小役等、二月御神幸之時、御神役有之、当年ハ当分□方へ□□□/都合〈九百八十俵貳斗八升/五十六貫五百四十七文〉/此内〈三百七十俵貳斗/八貫文〉御神事料ニ成申候、小日記在之、 加能史料戦国16p.358
気多神社文書
あふや村(安部屋)☆
あかすミむら(赤住)☆
楊田むら(柳田)☆
(羽咋) 天正5.11.24 1577 〔気多社正大宮司職当知行納帳〕一宮 毎年役分‖羽喰新保村〈あと役銭〉 あと十二戸之役/みなと役二百文/壹貫貳百文 〈あと役銭〉 新保村平左衛門〈とり/さた〉、/壹貫文 〈六月晦日御神事〉 あふや村〈番匠屋さた、/今ハ代官さた〉、/五百文 〈同六月/きすし五ツ〉 とき村/領家町/百文 〈八月十二日〉 かくミあとやく/十文宛 〈同六月〉 〈大嶋七院か、しほかまのやく〉、/三百文 〈同〉 〈あかすミむら、えこのミやく〉、‖一、二百文〈ひしのさい 千路むら・楊田むら 六月のやく也、/此外、尾長源右衛門とりさた〈ひしわきをかきり、/菱のさいあくる也〉、 加能史料戦国16p.375
気多神社文書
ふくら村(福浦)☆ (羽咋) 天正9.10.10 1581 〔前田安勝判物写〕追而申候、又左衛門為御礼安土へ被上候条、我等ゟ先申付候、当村船幷人足之儀、私として召遣候旨、其聞へ沙汰之限ニ候、此方用所於有之ハ、以書/付可申遣候、万一無書付候ハヽ、如先々船賃取之舟可越候、其上不謂事申候者、急度可/注進者也、‖ふくら村百姓中 加能史料戦国17p.223
当摩氏文書
たき村(滝)☆ (羽咋) 天正10.7.- 1582 〔気多社免田注文〕田方分‖一段 たき村/大、/はたけ、 まこ 百歩 畠 弥三郎‖九段 同〈坪ハかねつき〉、 左衛門九郎 卅歩 畠〈やないた、/同所〉、 同主/九反 田 同村 衛門三郎‖壹町小 田〈しやかう田〉、 やないた村/助二郎 壹町 同〈同所〉、 同主 加能史料戦国17p.347
気多神社文書

能登郡

郷(里)

上日・下日・越蘇・八田・加嶋・与木・能来・長濱

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
八田郷☆[5] 能登郡 天平勝宝2.5.11 750 〔知識人貢進文〕【八田】能登臣三千〈年卅九/越中国能登郡八田郷戸主能登臣石村戸口〉 加能史料奈良・平安Ⅰp.295
正倉院文書
鹿嶋郷 能登郡 天平宝字3.5.□3 759 〔木簡〕能登国能登郡鹿嶋郷戸主若倭部息嶋戸同小□調□鼠六斤/天平宝字三年五月□三日 加能史料奈良・平安Ⅰp.389
平城宮跡出土木簡
上日郷 (能登) 10C 〔木簡〕【上日】上日郷戸主舟木浄足戸□□ 加能史料平安Ⅳp.768
能登国国分寺跡出土
越曾郷☆[6] 鹿嶋郡 承久3.9.6 1221 〔能登国四郡公田田数目録案〕【越蘇】能登国/注進国中四郡庄・郷・保公田々数目録□‖一、能登国 鹿島郡‖越曾郷 本五丁六反七/四段 承久元年検注田定‖八田郷 本六反三/四段 同元年検立田定 加能史料鎌倉Ⅰp.239
森田良美氏所蔵文書
いおり之郷☆(庵) (鹿嶋)
大吞北庄
天正8.3.11 1580 〔長連龍判物写〕今般罷出、可令馳走之旨神妙候、於然者、大吞北庄之内いおり之郷、諸役皆免ニ可令扶/持候、猶良以可申候、仍如件、 加能史料戦国17p,44
長家文書

年月日 西暦 原     文 出  典
熊来村(熊来) (能登) 天平20.-.- 748 〔万葉集〕【能来】之乎路可良 多太古要久礼婆 波久比能海 安佐藝思多理 船梶母我毛/能登郡従香嶋津発船、射熊来村往時、作歌二首 加能史料奈良・平安Ⅰp.245
万葉集
能登部村☆[7]
馬庭村☆[8]
東湯浦村
三室村☆
湯河村☆[9]
澤野村☆
藤井村
鹿嶋郡 承久3.9.6 1221 〔能登国四郡公田田数目録案〕能登国/注進国中四郡庄・郷・保公田々数目録□‖一、能登国 鹿島郡‖上日庄加納村々 文治二年免定/能登部村 本ハ二十二丁七反九/拾町三段/馬庭村 本ハ十六丁六反八/六町壹段八‖東湯浦村 壹町三段四/三室村 拾三町五段/湯河村 九段三/澤野村 三段六‖藤井村 本六丁/壹町 承久元年立券状 加能史料鎌倉Ⅰp.268
森田良美氏所蔵文書
小柴村 (鹿嶋)
高畠庄
宝治2.8.27 1248 〔藤原頼嗣袖判下文写〕下 能登国高畠庄加納小柴村住人/可令早中原久家為地頭職事/右、任亡父朝厳法師延応元年八月十五日譲状〈嫡男幷当庄/預ニ付加半〉、為彼職、可致沙汰之状如件、 加能史料鎌倉Ⅰp.458
雑録追加
佐見村(佐味)☆ (鹿嶋) 建武2.7.14 1335 〔斎藤成光譲状〕譲渡 後家分所領事‖次布古乃田畠・屋敷四至堺事〈東限佐見村、西限不古能古河、/南限上野乃はら乃上乃道、北限海〉、/此四至内仁縦雖有漏譲状余田・余畠、後家可進退之、若於後家分成光跡得分親内仁致違/乱輩出来者、後家其跡於永代可申給、 加能史料南北朝Ⅰp.49
天野文書
野崎村☆ (鹿嶋) 康永3.6.21 1344 納造 外宮料能登国能登嶋御厨東方内野崎村日食米事/合田数貳町三反壹〈地頭自称/分〉者、/右所課者、段別漆升八合〈加雑事/米定〉所納如件、 加能史料南北朝Ⅰp.279
尊経閣古文書纂
飯浦村 (鹿嶋) 延文2.7.2 1357 〔惟宗経光打渡状〕天野安芸守遠政所所領能登国能登嶋東方内野崎・飯浦両村事、任被仰下候之旨、莅彼所/退于預人等、所打渡遠政之状如件、 加能史料南北朝Ⅱp.133
天野文書
伊折村 (鹿嶋)
大呑庄
永享2.2.17 1430 〔檀那願文〕能登国大呑庄伊折村/正珊(花押)/宗光(花押)/兵衛次郎(花押)/僧珊(花押) 加能史料室町Ⅱp.315
熊野那智大社文書
向田村☆
勾村☆[10]
(鹿嶋) 嘉吉3.8.吉日 1443 〔棟札〕向田村地頭藤原朝臣温井兵庫尉慶宗/大檀那藤原朝臣遊佐孫右衛門尉忠光‖勾村地頭富田三郎右衛門尉慶行 代官辻本□□尉行宗/嘉吉三年〈癸亥〉八月吉〈己巳〉□巳時棟上同午時御遷宮 大工藤原朝臣 加能史料室町Ⅲp.146
棟札(伊夜比咩神社所蔵
須曽村☆
鉤村
閨村☆
牟関村☆[11]
エノミ村
蜂崎村☆
(鹿嶋) 文明13.1.11 1481 〔能登島八ヵ村公田田数注文〕就一宮貳斗米嶋八个村壹分公田々数事/西方殿/一、参町五百苅 此内五百苅神社地、 野崎領家分/馬淵殿/一、陸町六百六拾苅 神社共ニ、 須曽/誉田園/一、肆町貳百玖拾八束苅 神社共ニ、 飯浦/富田殿/一、伍町九十苅 鉤村/温井殿/一、拾町 神社共ニ、此内〈七町向田、/参町ねや・/ムセキ〉、 向田・閨・牟関/波々伯部殿/一、玖町貳百四十苅 神社共、 エノミ村/同/一、貳町百四十苅 神社共、 蜂崎/遊佐殿/一、七千百廿苅 神社共ニ、 野崎地頭/都合四拾八町四十八束苅 加能史料戦国Ⅰp.403
伊夜比咩神社文書
笠師村 (鹿嶋) 明応8.12.26 1499 〔畠山義元書状〕就今度届幷被官討死忠節、本領至々所可知行候、笠師村事、為料所申付候、弥可致粉骨/候、謹言、 加能史料戦国Ⅴp.78
尊経閣古文書纂
嶋鉤村 鹿嶋郡 永正13.8.22 1516 〔方便法身尊像裏書〕本願寺釈実□□□/永正□□□□八月廿二日/本泉寺門徒/方便法身尊像/能州鹿嶋郡/嶋鉤村/願主釈宗教 加能史料戦国Ⅵp.259
妙覚寺所蔵
小田中村 (鹿嶋) 大永6.10.- 1526 〔一宮社務職年貢米銭納帳〕一宮社務職御年貢米銭納帳‖他人知行分/九百廿文 中川村〈三郎九郎〉‖三百文 二口村‖九百八十文 あせち兵衛/小田中村‖貳貫参百文 堀松/串田村〈かつさ〉‖壹貫百文 とき/富来村七个‖御帳之内、金丸地頭分代官沙汰分、/拾五貫六十五文、三町六段之地、甘田村ヨリ〈金丸代官取沙汰御年貢也、/霜月鵜祭ノ役〉、 加能史料戦国Ⅶp.343
気多神社文書
能登辺上村☆[12]
能登辺下村☆
一青村☆
くろち村☆[13]
はさか村☆[14]
大月村
春木村☆
金丸村☆
(鹿嶋) 天文17.2.20 1548 〔気多社年役注文〕能登邊村 進止免田/毎年十月廿二日/九石参斗 下村/九石三斗 上村/此分斗定四ツ入、/以上、四拾五俵斗貳ツ‖神免分/貳百苅 八俵 一青村/土佐/百苅 四俵 同村/四郎兵衛/七拾苅 三俵 くろち村/定泉さた/卅苅 貳俵 はさか村/ゑちせん/〈此田ハ不見之候〉/此分定升参斗入也、/符方中 神免/三石五斗 大月村〈これハ符方/衆中へ納〉、/貳石五斗 春木村/〈此分ハ公方へ出也〉、/三百苅〈林分〉 春木〈大宮司職田〉‖金丸村/五段 上下田正月禮銭百文/作人番頭賀加澤左近 加能史料戦国Ⅻp.254
気多神社文書
そて(外)村☆
小牧村☆
(鹿嶋) 天文-.-.- 1532~1555 〔能登内浦村々給人注文写〕内浦諸□□□‖向町 栂雪軒/小嶋 同/乙崎 長殿/新崎 後藤殿/志賀浦 長殿/禰き 同/曾福 渡邊源六殿/鹿嶋/そて・小牧〈貳个村〉、 貳本松殿/深浦 馬淵彦二郎殿 加能史料戦国13p.120
諸橋稲荷神社文書
山田村 (鹿嶋) 永禄2.9.25 1559 〔棟札〕(表)貳斗国分福五郎殿 貳斗新保殿 五十文江尻與三兵衛尉 五升小太/□□□□□□□□壹俵直海殿 壹俵河内・西谷両村ヨリ、 百文南部/奉加御人数之事 四十文国分佐次右衛門殿 五升泉太郎殿 五十文菅‖□袋□□山田村ヨリ、 加能史料戦国14p.116
藤津比古神社所蔵
横田村☆ (鹿嶋) 永禄2.9.25 1559 〔熊野権現本社再建棟札写〕奉加御人数之事‖三袋五ツ 横田村ヨリ、/三袋五ツ 山田村ヨリ、/壹斗五升 太郎次郎/三袋五ツ 八郎太郎/三袋七ツ 藤九郎/百文 平光寺寺内ヨリ、 加能史料戦国14p.117
能登国藤瀬熊野神社文書
くぬきむら(久乃木)☆ (鹿嶋) 天正2.2.9 1574 〔桜井基常譲状〕□度御神かうの御ともの事、我□□□幷ニ付候て、何共可仕やうなく候処ニ、種々御懇/之御引立ニより、一職をつゝけ申候、過分ニ存候、就其すゑさか・い□□□・くぬきむ/らほそゑもんさた分、以上貳个所の白米段米を前之権大宮司職分の事候間、此たひ御ほ/うおんニよつて本職へ永代為□□□申候、 加能史料戦国16p.110
気多神社文書
谷村
寺地村
(鹿嶋ヵ) 天正3.6.吉日 1575 〔棟札〕(表)奉御造栄八幡宮 願主春恵 敬/白、/(裏)向田村・谷村・寺地村□□□/天正三年六月吉日 旦那衆/供養湯立□/二穴・野崎村・内うら/たゑま・いなは・あゝ□奉加 加能史料戦国16p.197伊夜比咩神社所蔵
ひかしはゝ村(東馬場)☆
たけへ村(武部)☆
いた村(井田・伊田)☆
久江村☆
あふのミ村(大吞)
小竹村
みしろ村(水白)☆
(鹿嶋) 天正5.11.1 1577 〔気多社免田記〕一宮指出之事 神官方‖志ほ村ヨリ 五十俵 三宅大しやう殿・同九郎衛門殿入くミ、/すかハら村ヨリ 二十俵 大すミ殿分□□□、/すきのや村ヨリ 三十二俵九升 大すミ□□入くミ、/中川村ヨリ 三十俵・壹貫三百八十文 二本松将監殿御分、/尾長村ヨリ三十俵 八代越中守殿分入くミ、/千田村ヨリ 二十俵 いたミ殿分入くミ、/金丸村ヨリ 三十俵 三宅殿分、/のとへ村ヨリ 四十四俵・斗二ツ 藤王殿分上分、/ひかしはゝ村ヨリ 十五俵・壹貫二百六十五文/たけへ村ヨリ 十俵 しやうせんし分、/いた村ヨリ 六表/二口村ヨリ 九俵 長きの守殿分、/いしの町村ヨリ 十五俵 温井上野殿分、/あまた村ヨリ 二十俵 大ねんし分、/久江村ヨリ 十貫文 神保殿分、‖此外ニ在々諸々小役等幷二月御神幸時御神役有之、/衆徒分‖円井村ヨリ 四十俵七升 あまの殿入くミ、‖ほり松村ヨリ 十五俵 温井殿分、‖千代町村ヨリ 二十俵 同、/よし田村ヨリ 十五俵/とくらく村ヨリ 十俵/あふのミ村ヨリ 三十五俵七升五合・壹貫六百文、/さミ村ヨリ 二貫文/なふミ村ヨリ 七貫文/しはかき村ヨリ 壹貫文‖つちはし村ヨリ 三俵二斗/あおふ新保村ヨリ 六百文/久江村ヨリ 十貫文 二月役、/小竹村・みしろ村村ヨリ 八貫文 同、‖大町村ヨリ 五俵壹斗/上江村ヨリ 七俵二斗五升/此外、在々諸々ヨリ小役等、二月御神幸之時、御神役有之、当年ハ当分□方へ□□□/都合〈九百八十俵貳斗八升/五十六貫五百四十七文〉/此内〈三百七十俵貳斗/八貫文〉御神事料ニ成申候、小日記在之、 加能史料戦国16p.358
気多神社文書
古郷村(古府)☆ (鹿嶋) 天正8.6.27 1580 〔長連龍判物〕今般御越候而御馳走之段、畏存候、然者、中井北方・武部山崎分新保田、此為替代古郷/村徳田弥左衛門尉分之内を以三千疋、無相違可有御知行候、恐々謹言、 加能史料戦国17p.127
河野文書
高畠村☆ (鹿嶋) 天正8.11.22 1580 〔長連龍判物〕小田中村之内星名弥六分拾八貫文、黒地淵倉分五貫文、高畠・藤井村之内土田端貳貫五/百文、合貳十五貫五百文、令扶持候、但聞出於有之者、貳十五貫文之外者、可為算用候/者也、仍如件、 加能史料戦国17p.162
荻野文書
瀬戸村☆ (鹿嶋) 天正8.11.23 1580 〔長連龍判物〕瀬戸村平大和守分五十貫文之内三千疋進之候、可有御知行者也、仍如件、 加能史料戦国17p.163
長次郎左衛門家文書
伊久留村☆ (鹿嶋) 天正8.11.26 1580 〔長連龍判物写〕為例年御最花料、伊久留村之内伊丹分五千疋、相添百姓、諸役皆免ニ寄進申候条、可有/御支配候、弥家中繁栄・武運長久御祈念、不可有怠転者也、仍如件、 加能史料戦国17p.164
長家文書
井田中村☆[15] (鹿嶋) 天正9.8.17 1581 〔長連龍判物写〕今度者金子貳枚御馳走、令祝著候、就其、井田中村之内斎藤新五郎知行方、米銭共ニ四/拾貫文之分、永代相渡申候間、可有御知行候、若彼地於相違者、以他所相当、則相渡可/申者也、仍証文如件、 加能史料戦国17p.207
温故足徴
いほり村(庵)☆ (鹿嶋) 天正10.7.3 1582 〔前田利家黒印状〕柴草屋五郎左衛門尉跡職之田地、其郷惣百姓として令修理、年貢・諸成物急與可納所候、/若於令無沙汰者、惣百姓として可究済物也、‖いほり村/惣百姓中 加能史料戦国17p.319
高橋健一郎家文書
新庄村☆ (鹿嶋) 天正10.9.6 1582 〔前田利家寄進状写〕新庄村之内を以七拾俵、八幡へ為新寄進進之候、全可有領知者也、仍如件、 加能史料戦国17p.397
能登国石清水神領文書
山崎村☆ (鹿嶋) 天正10.11.14 1582 〔山崎村検地帳写〕大吞南方山崎村分/かけのふち/壹段半 角左衛門尉 田 河はた/壹段大 同人 田/同/小 同人 田 ゑくり/参段 同人 田/同/壹段 荒 同人 田‖合拾町六段貳拾五歩 田畠・屋職定高、/此内壹段此内壹町貳段半卅歩 荒分 加能史料戦国17p.413
大畠家文書
熊淵村☆ (鹿嶋) 天正10.11.20 1582 〔熊淵村検地帳〕大吞南方熊淵村分/道の後/壹段小廿歩 禅正 田 同/貳段大 同人 田/同/七段六十歩 同人 田 同/半卅歩 同人 田/同/壹段 同人 田 たて岩/卅歩 同人 畠‖合八町七段百五歩 田畠・屋敷定高、此内六段小拾歩 荒分 加能史料戦国17p.417
熊淵区有文書

鳳至郡

郷(里)

櫛師・小屋・男心・待野

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
大屋郷 鳳至郡 天平勝宝5.10.- 753 〔正倉院宝物調絁墨書銘〕【小屋】越中国鳳至郡大屋郷舟木秋麻呂調狭絁壹匹〈長六丈/廣一尺九寸〉/天平勝宝五年十月〈主当国司正七位上行掾安倍朝臣継人/主当郡司大領外正八位下能登臣智麻呂〉 加能史料奈良・平安Ⅰp.322
正倉院宝物調絁墨書銘
諸橋郷
阿曾良郷☆[16]
鹿(加)並(波)郷☆[17]
(鳳至) 文応2.6.13 1261 〔諸橋六郷[18]検注目録写〕能登之諸橋六郷目録之事‖合/一、本郷ニ付諸橋・阿曾良・鹿並上三郷/田数貳拾参町貳段三之内/常不 壹町五段/年不 貳町/見作田拾九町七段三之内/除/神田伍町六段五 加能史料鎌倉Ⅱp.14
諸橋稲荷神社文書
穴水郷 (鳳至) 貞治5.6.25 1366 〔僧有海譲状〕譲渡 穴水郷来迎寺田之事/合壹段者〈在所樟村、坪ハ平野/楽入道名之内也〉、/右、件田者、虎法師丸に永代譲渡処実也、於彼田者、為御影幷面々先亡後滅御聖霊之御、/毎年二季之彼岸、於来迎寺、供僧為法華経一部読誦之僧膳料足之也、 加能史料南北朝Ⅱp.271
来迎寺文書
(諸橋)本郷 (鳳至) 延徳3.7.- 1491 〔稲荷宮神主嘉重神役申状案〕一、三貫六百文 七月供花料、六个日分本郷・阿曾良・加並三郷より参候、これも/一貫二百文かなミより不参候間、二日分勤行退転候、/一、壹貫文 八月朔日御神事料、本郷・阿曾良・加並三郷より参、但加並ハ不/参候、  加能史料戦国Ⅲp.366
諸橋稲荷神社文書
町野本郷 (鳳至) 永禄2ヵ.3.2 1559 〔畠山義綱袖判同年寄連署奉書写〕【待野】きつと申こし候、此きさミそのこほりの事、百性とも申合、ちそういたすにおゐてハ、/三ねんはんなうたるへし、後日のため、上さま御はんをくわへられ候、いさゝかさほい/あるへからす候、‖町野本郷/五郎さへもんとのへ 加能史料戦国14p.107
雑録追加
南志見本郷 鳳至郡 天正5.11.16 1577 〔上杉謙信朱印状〕【男心】嶋倉孫左衛門尉ニ落著知行覚/鈴郡之内、/一、久乃利浦〈百四拾貳貫五百文〉 温井下総守分/鳳至郡之内、/一、南志見本郷五谷〈貳百七貫三百文〉 酒井左近分/同、一、町野之内〈鶴之町・/大箱〉〈八十貳貫六百七十六文〉〈長対馬守分/池田分〉 加能史料戦国16p.363
維宝堂古文書

年月日 西暦 原     文 出  典
南志見村 鳳至郡 建仁元.8.- 1201 〔地頭長谷部信連下文写〕【男心】下 南志見村沙汰事/西光寺建立事/右、件於西光寺者、以地頭助成所建立也、沙汰人以下百姓等、敢不可為煩、仍如件、 加能史料鎌倉Ⅰp.116
西光寺文書
鵜川村☆
矢並(波)村☆
鳳至郡 承久3.9.6 1221 能登国四郡公田田数目録案〕能登国/注進国中四郡庄・郷・保公田々数目録□‖一、鳳至郡‖諸橋保 本二十四丁五反四/廿町壹段 建治元年(ママ)立券状/鵜川村 本廿三丁二反八/貳町八段三/矢並村 四段 加能史料鎌倉Ⅰp.268
森田良美氏所蔵文書
二个村 (鳳至) 弘安6.5.12 1283 〔櫛比荘二ヵ村諸寺仏供田注進状〕注進 二个村諸寺御仏供田事/合/師岡寺観音堂寺田三反三内〈御仏供五、仁王講経田九/御花米田一、修理田七/燈油田五、修正田六〉/和泉寺御仏供田二、 加能史料鎌倉Ⅱp.112
総持寺文書
久亀屋村☆ (鳳至) 嘉元3.7.9 1305 〔懸仏〕嘉元三年七月九日/□宮大明神 馬志キ/本江久亀屋村 加能史料鎌倉Ⅱp.246
菅原神社所蔵
桑谷田村(桑屋) (鳳至)
櫛比庄
正慶2.3.6 1333 〔諸岡寺院主職補任状写〕補任 能登国櫛比庄桑谷内村内諸岡寺院主職之事/大法師定員/右人、任先師定賢律師譲、所被補任也、寺田畠已下、任例致其沙汰、可抽天長地久御祈/祷忠勤之状、所仰如件、 加能史料補遺Ⅰp.118
総持寺文書
和田村☆ (鳳至) 元弘3.9.- 1333 〔外題安堵状〕能登国櫛比御厨内総持寺雑掌禅勝謹言上/欲早被成下安堵国宣、備後証当寺管領田畠等事/右田畠等者、為永代寄進之地、重代相伝無相違者也、随而当知行勿論之条、同御厨内和/田村地頭長彦十郎政信当参存知之上者、有御尋不可有其隠、 加能史料南北朝Ⅰp.10
総持寺文書
山田村 (鳳至)
大屋庄
建武元.6.15 1334 〔雑訴決断所牒〕□訴決断所牒 能登国衙/当国大屋庄内山田村雑掌申当庄地頭請所停止事〈副解状/具書〉/右、為有沙汰可被召上盛(長)連者、以牒、 加能史料南北朝Ⅰp.23
田中繁三郎氏所蔵文書
樟村 (鳳至) 貞治5.6.25 1366 〔僧有海譲状〕譲渡 穴水郷来迎寺田之事/合壹段者〈在所樟村、坪ハ平野/楽入道名之内也〉、/右、件田者、虎法師丸に永代譲渡処実也、於彼田者、為御影幷面々先亡後滅御聖霊之御、/毎年二季之彼岸、於来迎寺、供僧為法華経一部読誦之僧膳料足之也、 加能史料南北朝Ⅱp.271
来迎寺文書
内保村☆ (鳳至)
櫛比庄
延文3.11.4 1358 〔長信氏寄進状〕寄進/能登国櫛比庄内保村田地事/合田壹段四者〈在所本内、/五郎次郎入道之作〉、/右所者、信氏相伝之地也、而相副祖母念心譲状、為信氏月忌日、於惣持寺盡未来之所奉/寄進也、 加能史料南北朝Ⅱp.142
総持寺文書
麦野村(麦生野)☆ (鳳至)
上町野庄
貞治3.8.22 1364 〔大般若波羅蜜多経奥書〕(巻二〇〇奥書)当社 八幡宮常住大般若経一部奉修覆、/貞治三年八月廿二日 能州上町野庄麦野村預所菅原尚重 加能史料南北朝Ⅱp.251
大般若波羅蜜多経
うらかみのむら(浦上) 鳳至郡
櫛比庄
応安元.3.20 1368 〔長宗悟寄進状〕きしんたてまつる、のとのくにふけしのこほりくしひのしやうのうち、うらかみのむ/らのたの事、/合三百かり〈さいしよみやのこし、/しん五郎つくり〉、/右、くたんのてんちハ、しやミそうこちうたいさうてんのそりやうなり、 加能史料南北朝Ⅱp.371
総持寺文書
なかゑむら (鳳至)
櫛比庄
応安2.10.3 1369 〔長宗悟寄進状〕奉寄進/能登国櫛比庄内保村内田地事、/合参町者(一所ほりこし一町、/一所よしかわ一町、/一所なかゑむら一町)、/右、彼所者、宗悟重代相伝所領也、然為芝叟・祖英・祟信菩提、限永代惣持寺奉寄進所/也、 加能史料南北朝Ⅱp.407
総持寺文書
柳田村☆ (鳳至) 応安6.1.5 1373 〔大般若波羅蜜多経奥書〕(巻一六四奥書)応安六年〈癸丑〉正月五日 於柳田村白山宮書了、/安養寺金剛仏子性覚 加能史料南北朝Ⅱp.452
大般若波羅蜜多経
諸岳(岡)村 鳳至郡
櫛比庄
永和元.7.25 1375 〔長正連売券〕沽却/能登国鳳至郡櫛比庄諸岳村田地事、/合壹段〈在所荒志〉、/右、彼田地者、正連重代相伝之所領也、然依有要用、惣持寺塔頭法光院、代銭参貫五百/文、限永代売渡所也、 加能史料南北朝Ⅲp.8
総持寺文書
なかい村(長井)☆ (鳳至)
櫛比庄
永和4.4.27 1378 〔長芝叟寄進状〕奉寄進能登国櫛比庄内、うちほむらの中ほりこしに田一たん、名字五の田一所、/なかい村に田一たん、名字なしの木田一所、/右、件のところは、沙弥芝叟重代しよりやうたるあいた、祟信・暁窓のほたいのために/惣持寺御寺なかく寄進申処也、 加能史料南北朝Ⅲp.102
総持寺文書
大さわ(沢)村☆[19] (鳳至)
志津良庄
永和5.1.11 1379 〔弥郡時具譲状〕ゆつりわたすのとのくにしつらのしやう大さわむらのちとうしき五ふん二の事、/右、かのところハ、はうふきやうゆう□てよりゆつりゑて、ちきやうさをいなし、しか/るを、いやこほりのたんないさ□もんにうたうのしそくにやくまさをやうしとして、ゑ/いたいゆつるところなり、 加能史料南北朝Ⅲp.118
弥郡文書
穴水村 (鳳至)
大屋庄
14C(鎌倉末期) 〔華頂要略〕御影堂領‖一、能登国大屋庄十个村、三井保〈十貫/文〉・穴水村〈十貫文〉・山田村〈十貳/貫文〉・光浦〈十貫/文〉・深見保/〈十二/貫文〉・内浦〈六貫/文〉・鳳至院〈拾八貫文法輪院/貳貫文寺用〉・西保、號河原田〈四十貫文法輪院/納、七貫文寺用〉・東保〈不知/行〉・南志見村〈不知行、相国寺/大徳院知行云々〉、 加能史料南北朝Ⅱp.422
華頂要略
和住村☆[20] (鳳至)
町野庄
応永30.8.10 1423 〔松田基秀売券〕依有用々永代売渡申田地之事、/合肆佰苅者、毎年之年貢伍貫文、/右、件田地者、能登国町野庄和住村本郷領家五之田名之内限肆佰苅、以同国於櫛比庄惣/持禅寺為前住月泉印和尚之毎月廿四日粥飯料代伍十貫文売渡申処実也、 加能史料室町Ⅱp.152
総持寺文書
阿岸村 不下子郡 永享8.8.25 1436 〔親鸞聖人御真影〕東山大谷本願寺親鸞聖人御真影/能登国不下子郡阿岸村/本誓寺 願主 釋了道/永享八年〈丙/辰〉八月廿五日 存如御判 加能史料戦国Ⅰp.168
本誓寺文書
上村 (鳳至)
(大屋庄)
文安3.10.2 1446 〔遊佐忠光遵行状〕御料所山田村内上村分事、於御代官職者、追而可被定置候、至当御年貢以下者、先可致/執沙汰之旨、被仰付筒井佐渡入道江、早可渡付旨下地於由候也、仍執達如件、 加能史料室町Ⅲp.196
弥郡文書
五个村 (鳳至) 長禄3.2.10 1459 〔紹寛書下〕相国寺領能州櫛比五个村内諸岡惣持寺、為御祈願所任去年十二月廿四日御判之旨、於向/後不可有違乱煩之儀者也、仍状如件、 加能史料室町Ⅳp.108
総持寺文書
田村村☆[21]
日尾村(日野尾)
(鳳至)
櫛比庄
明応6.10.22 1497 〔吉見統範寄進状〕奉寄進/能州櫛比庄貳个村田村村之内田地之事/合百拾束苅者〈在所高嶺尾五之田、/年貢壹石九斗、升者貳个村納升定〉、/右件田地者、統範重代相伝之私領、当知行無相違地也、然於老母天與清祐大姉為位牌料、/永奉寄進処也、諸役・諸御工事令停止者也、但降役計者、任日尾村法作人可沙汰也、 加能史料戦国Ⅳp.379
総持寺文書
三井中村 (鳳至) 永正12.3.16 1515 〔畠山義元寄進状〕興徳寺領之事、三井中村分内古坊正力谷〈夫銭共ニ〉幷中村館分等之事、為菩提、永代寄進/不可有相違状如件、 加能史料戦国Ⅵp.203
龍門寺文書
河路村 鳳下至郡
町野庄
永正15.6.22 1518 〔方便法身尊像〕大谷本願寺釈実如□□□/永正十五年〈戊寅〉□月廿二日/仰西寺門徒能州/方便法身尊像/鳳下至郡町野庄内/河路村/願主釈□□ 加能史料戦国Ⅵp.370
光明寺所蔵
輪島河井村☆ 鳳気至郡
大屋庄
大永4.5.18 1524 〔棟札拓影〕(表面院)奉造立重蔵宮一宇 大永四年〈甲/申〉五月十八日/神主九郎三郎家次 同成重‖ (裏面陰刻)十実文頭之代 左衛門九郎/能登国鳳気至郡大屋庄輪島河井村 加能史料戦国Ⅶp.210
重蔵神社所蔵
加並村☆[22] 鳳気至郡 大永5.9.26 1525 〔棟札〕奉造立能州鳳気至郡諸橋郷加並村白山大権現之御社村衆御遷宮棟符神主觸下組新左衛門‖大工諸橋藤原宗永 大統領諸橋同藤原清光/旹大永五年〈乙/酉〉九月廿六日/大檀越七郎右衛門尉 加能史料戦国Ⅶp.296
鹿波白山神社所蔵
古君村☆
かふと村(甲)☆
藤なミ村☆[23]
はなミ村☆[24]
はしかし村☆[25]
比良月崎村☆[26]
穴水河嶋村☆
うるち村☆[27]
鵜嶋村☆
穴水大町村☆
しかの浦村☆[28]
からかう村☆[29]
にいさき村☆[30]
上野村☆
河内村☆
うち浦村☆
しつミ村☆[31]
おきのさき村
川尻村
天神谷村☆
はさミ石村☆[32]
むきの浦村☆[33]
上しつミ村☆[34]
岩車村☆
ねき村☆[35]
乙かさき村☆[36]
かしま村☆[37]
(鳳至) 天文元.7.- 1532 〔諸橋六郷・南北棟数注文写〕諸橋六郷・南北■■注文/廿七間 やなミ村 屋なミ之内貳間鵜川炭竈、/四十二間 古君村〈此内廿九間明千寺〉  百七十六間 諸橋本郷/百五十四間 かふと村  五十三間 かなミ村/百五十一間 山田四个村  六十八間 山田四个村/七十五間 宇出津村  六十七間 藤なミ村/四十三間 はなミ村  九十四間 鵜川村/南北/九十二間 中井北方  四十一間 中井南方/六十二間 はしかし村  廿三間 比良月崎村/十八間 穴水川崎村  十四間 うるち村/六間 鵜嶋村  廿五間 穴水大町村/廿四間 しかの浦村  五十八間 からかう村/卅九間 にいさき村  三間 上野村/三十間 河内村  七間うち浦村/五間 しつミ村  十間 おきのさき村/九間 川尻村  六間 天神谷村/七間 はさミ石村  六間 むきの浦村/十一間 上しつミ村  十三間 岩車村/三十二間 ねき村  十間 乙かさき村/三間 くぬき村  十九間 かしま村/十四間 そふく村 加能史料戦国Ⅷp.319
諸橋稲荷神社文書
三井上村 鳳至郡
大屋庄
天文7.4.5 1538 〔元真寄進状〕能登国鳳至郡大屋庄三井上村之内第谷分、為光陽院殿御入牌、永代令寄進之者也、仍/状如件、 加能史料戦国Ⅹp.20
総持寺文書
向谷村
小瀧村
ふくさ谷村
中尾村
廣岡村☆
(鳳至) 天文20.6.3 1551 〔櫛比庄諸岡村名・散田指出〕納櫛比諸岡村名・散田之御指出之事‖向谷村〈壹名、太郎兵衛/介/右馬〉両三人作/一、参百苅 此分銭/合五貫貳十五文/〆参貫三百五十文 長夫・立帰共、‖小山散田分/小瀧村〈左近/右近/二郎右近〉両三人作/一、百八拾苅 此分銭 参貫拾四文/ふくさ谷村〈此村ハ蒙多へにて、惣百姓仕候〉/一、百苅 此分銭/合壹貫六百七十三文/中尾村〈介太郎/右馬/左近〉両三人作/一、百苅 此分銭/合壹貫六百七十三文/廣岡村〈兵衛/右馬/三郎兵衛/太郎五郎〉四人作/一、貳百四拾三束四把苅 此分銭/合四貫六十九文 加能史料戦国13p.99
興臨院文書
諸橋村 (鳳至) 天文20.11.11 1551 〔斎日銭請取状〕納 斎日銭之事/合八貫文者〈但諸橋村也〉、/右、為且沙汰、所納如件、 加能史料戦国13p.119
諸橋家文書
前なミ村☆
隠岐なミ村☆[38]
(鳳至) 天文-.-.- 1532~1555 〔能登内浦村々給人注文写〕内浦諸□□□‖波並 三宅小三郎殿/矢並 温井彦左衛門尉殿/志津見 同兵庫助殿/鵜川 同/古君 神保八郎右衛門尉殿/諸橋・前なミ・隠岐なミ〈三个村ニ付〉、 三宅小三郎殿 加能史料戦国13p.120
諸橋稲荷神社文書
木原村☆ 鳳至郡 永禄元.5.吉日 1558 〔鰐口〕(表)上野州長野郷濱河村薬王山醫音寺/鰐口応永廿九年〈壬/刁〉十一月吉日願主盛光敬白、/(裏)奉奇進鰐口白山宮永禄元年五月吉日敬白、/能州鳳至郡山田新田内木原村本願主堂下五郎兵衛盛家 加能史料戦国14p.78
白山神社所蔵
大野村☆ (鳳至) 永禄元.10.吉日 1558 〔誉田康俊田地寄進状写〕奉寄進田地之事/永代也、/右、大野村号切畑、仍武運長久・子孫繫昌・安穏息災、為諸願成就也、仍寄進状如件、 加能史料戦国14p.101
能登国石倉比古神社文書
小垣村☆ (鳳至) 永禄5.-.- 1562 〔棟札〕永禄第五天〈壬/戌〉中秋下澣〈敬/白〉、牛﨟之人数之事次第不同、/付番匠苗藤衛門尉・同弥左衛門尉 績楽寺 萬年寺 天神々主 坂尻藤次郎/鍛冶新兵衛□□□□□□ □□□二郎 横山衛門尉 小垣村本倉寺数道 宗徳軒 加能史料戦国14p.260
菅原神社所蔵
小橋村 (鳳至)
(下町野庄)
永禄9.12.7 1566 〔浅見恵有寄進状写〕下町野小橋村若田地之事/合百廿苅幷廿五束苅在之、/一、宮修理被成造栄幷可有下物、正月八日朝戸開、三月三日・同廿四日・五月五日・/九月九日、氏子共酒ヲ給らせ、晦日七度六升之下物者、□□□□坂中ニ堂造栄ニ、此内/ニ二斗下物可有□□、此外ハ岩蔵造栄可被成者也、 加能史料戦国15p.78
能登国石倉比古神社文書
大川村☆ (鳳至) 元亀3.3.5 1572 〔七郎衛門等田地寄進状〕永代きしん仕候田地之事/合貳拾苅ハ〈但田つほ/おきのや□〉、/右、末代きしん仕申候、但□□せかき田に為参申候、いかやう□□、又ハ御国さくらん/な□□□□於此田地ニ、以後とかく□□□間敷候、仍為後日状、□□□□件、/大川村百性/七郎へもん(略押) 加能史料戦国15p.271
岩蔵寺文書
中居村☆[39] (鳳至) 天正6.8.17 1578 〔長沢光国書状〕鈴因へ切書披見候、昨日之事者、各穴水へ令一味ニ付而放火、併百姓以下討捕候事者、/舟手之者共之働ニ候、是ハ甲之人数候、光国手前之人数、陸之働候間、中居村の百姓討/捕候事、一円ニ不知候、然者、各可罷出之由尤候、但一途穴水之手切、無二対七尾於可/令馳走者、得其意候て、可罷出候、 加能史料戦国16p.418
森岡家文書
八个村 (鳳至) 天正7.7.吉日 1579 〔鉄川寺衆徒中申状〕阿岸村ヨリ湯洗銭與候て、毎年拾貫文、鐵川寺惣衆徒中へ相立申候、年中諸神役・祭礼/令執行之事候、此旨御披露奉仰候也、/八个村 鐵川寺/衆徒中 加能史料戦国17p.15
宝泉寺文書
一方村 (鳳至) 天正8.2.13 1580 〔長連龍判物〕去年以来御馳走、祝著之至候、然者、本意之上、町野之内一方村幷三井之内中村進之/候、弥御忠孝尤候、恐々謹言、 加能史料戦国17p.44
長次郎左衛門家文書
河西村☆ (鳳至) 天正9.5.25 1581 〔上野次郎左衛門等畠地売渡状写〕永代売渡シ申畠之事/合六百畠、所ハ助実〈の下あなはた/け也〉、/右之畠、五俵ニ永代売渡シ申所実正也、此御米ハ大野村日そん所ニ而御座候ニ付而、河/西村ノ内ゟ大井を上候時ニ、飯米・さけニ仕申候間、徳政又ハ御国替・御地行替、如何/様ノ御事とも御座候とも、此田地ニ付而少シも申分有間敷候、 加能史料戦国17p.196
時国健太郎家文書
上町野村
中町野
(鳳至) 天正10ヵ.正.15 1582 〔前田利家黒印状写〕【待野】上町野村幷中町野村ニおゐて、用木百本きらせ候間、其在所夫丸を以、宇出津まて出之、/西兵衛ニ可相渡者也、 加能史料戦国17p.228
粟倉家文書
中井釜屋村 (鳳至) 天正10.2.21 1582 〔柳原淳光書状写〕態令申候、抑旧冬被仰出候能州中井釜屋村御料所之儀、任先規之旨、御分国中可為御直/務之旨被仰付、内儀従貴所前又左へ被申下候処ニ、無別義候由、返札披見候、然共、一/円在所柄之儀、不及其沙汰候事如何候哉、定下々猥之儀存候、 加能史料戦国17p.236
能登中居三右衛門伝書
なふミや村(能納屋)
ミやこは村(宮古場)☆
(鳳至) 天正10.10.9 1582 〔前田利家扶持目録〕櫛比八个之内、 山林竹木除之、/本郷あら屋 二俣川 なふミや村/あさう田 ミやこは村/四百俵 長田猪介殿/三百俵 橋爪小右衛門尉殿/貳百六十俵 林文右衛門尉殿/貳百四十俵 大場勘次殿‖合貳千百三十五俵/残て拾三俵壹斗 加能史料戦国17p.400
本郷家文書
かつら谷村(桂)☆
山辺村☆
本打村☆[40]
道下村☆
かつた村(勝田)☆
(鳳至) 天正10.10.9 1582 〔前田利家扶持目録写〕櫛比八个之内、 山林竹木除之、/かつら谷村 山辺村 本打村/道下村 かつた村 和田村/五百俵 脇田小五郎殿 三百俵 手嶋左衛門殿/三百六十俵 河村五右衛門殿 二百俵 吉田作次殿/百俵 鈴木才蔵殿 十五俵 道下三郎左衛門かたへ/十俵 道下護摩堂へ/合千四百八十五俵/残て拾五俵二斗九升五合 加能史料戦国17p.402
田谷家文書
あ(阿)岸中村 (鳳至) 天正10.10.10 1582 〔前田利家黒印状写〕中村之内を以、拾俵令扶持、地下之儀、情を入、馳走肝要候也、‖あ岸中村/高うこかたへ 加能史料戦国17p.404
田谷家文書
多羅村 鳳至郡 16C 〔拾塵記〕大永■年能登国中鳳至郡ニ釶打村之内多羅村ト云所、一ノ道場ノ主タル入道侍リキ、■■道慶ト云モノアリ、是モ/志フカキ事限ナシ、乱後ナリシカハ、常住ノ屋半カコヒ道場トス、或時ノ夢ニ、是モ又/老上人ヲ見奉、大永七年十二月廿五日夜ノ夢ニ、此屋ヘ光臨カタシケナシト申処、事ノ外ニケムシトソ被仰、 加能史料戦国Ⅴp.47
拾塵記

珠洲郡

郷(里)

日置・草見・若倭・大豆

郷(里) 年月日 西暦 原     文 出  典
たゝのこう(直郷) (珠々)
若山庄
12C 〔珠洲樹文蓋付経筒外容器銘〕わかやまの/みさうたゝの/こうのちうにん/□□(花押)/おちのためひさ 加能史料平安Ⅳp.760
愛知県陶磁資料館所蔵
正院郷☆[41] (珠々) 文和元.3.11 1352 〔高座宮本経田目録〕合正院郷内貳町四段‖壹段道誓、壹段道壹名、/伏見村内壹段神主名、貳段善阿弥、貳段名主中、壹段毛須南坊、/右、正院郷内本経田目録如斯、 加能史料南北朝Ⅰp516
須々神社文書
若山郷 (珠々) 貞治2.5.20 1363 〔島田光次寄進状写〕寄進 馬繁浦本光禅寺免田の事/合壹段者〈在坪ハ若山郷下/包正名内路所々〉、/右、件之免田ハ、光次知行分として永代寄進申処也、但彼田ニをいて者、子々孫々一族とかうして、後々に右違乱煩申旨候ハヽ、永ふけうたるへく候、 加能史料南北朝Ⅱp.221
本光寺文書
木郎郷 (珠々) 永和1.12.7 1375 〔日野資教家御教書〕木郎號足羽貳段陸内、足羽社神田伍、所残貳段壹〈恒益〉、為祖父〈理寂〉五月二日・先考/〈英光〉九月廿五日・先妣〈清光〉二月六日御忌日、為奉訪彼御菩提、永代所有御寄附満福寺也、 加能史料南北朝Ⅲp.22
蜜福寺文書
飯田郷[42] (珠々) 大永年間.4.2 1521~1528 〔専光寺慶心書状〕書状委細披見候、五拾疋被上候、目出難有候、仍御門徒中之儀、若松殿様江具申分候て、/井堰方より折紙被下候、然上者、菟角之儀有間敷候、当寺御門徒衆一人も無相違可被申/合候‖飯田郷有正/則眞/末次其外御門徒中 加能史料戦国Ⅶp.126
正福寺文書

年月日 西暦 原     文 出  典
深見村 (加賀) 天平21.3.15 749 〔万葉集〕越前国掾大伴宿祢池主来贈歌三首/以今月十四日、到来深見村、望拝彼北方、常念芳徳、何日能休、兼以隣近、忽増戀/緒、加以先書云、暮春可惜、促膝未期、生別悲号、夫復何言、臨紙悽断、奉状不備、 加能史料奈良・平安Ⅰp.260
万葉集
眞脇村☆ (珠洲) 康治2.10.4 1143 〔源季兼寄進状〕寄進/相伝所領壹處事/在能登国管珠珠院内若宮庄、/四至/南限珠珠正院眞脇村、/北限同院八條袋、/西限町野院境山、/東限海、/右件庄者、親父故土佐守俊兼朝臣所令伝領也、仍存生之時、所季兼處分給也、 加能史料平安Ⅲp.489
九条家文書
蔵見村
宇出村(宇出津) [43][44]
珠々郡 承久3.9.6 1221 〔能登国四郡公田田数目録案〕能登国/注進国中四郡庄・郷・保公田々数目録□‖一、珠々郡‖蔵見村 拾四町三段九 元久貳年検注田定/宇出村 十町七段/高屋浦 貳町四段九/眞脇村 本九丁七反二/八町三段 加能史料鎌倉Ⅰp.268
森田良美氏所蔵文書
淡津村☆[45] 珠々郡 長禄3.6.- 1459 〔長信連寄進状写〕御屋形様河内御出陳之時、清水寺江為御祈念之、能州珠々郡方上保淡津村琴江院寄進田/地之事、/合貳百苅者、/右、彼田地者、自上様被付仰候之間、長十郎信連永代上役共諸公事皆免料寄進申処実也、 加能史料室町Ⅳp.131
琴江院文書
※要検討文書
中村 (珠洲) 天文10.12.24 1541 〔山崎孫太郎女子売券〕買渡申女之事/合壹仁者、 在所圓山、/右、彼永代買渡申処実也、但代八百文、永代普代相伝買申事不相違候、於上者有頂天、/下者大河下ニ、幷山崎名字内子々孫々、於此女名若千代ニ年十一才、違乱煩申候敷候、‖買主中村山崎孫太郎(略押) 加能史料戦国Ⅺp.101
時国健太郎家文書
折戸村☆ 珠洲郡 (天文)10.-.- (1541) 〔方便法身尊像裏書〕□□□願寺釈証如/□□十年〈辛丑〉□□□□/能州珠洲郡/□便法身尊形/□院郷折戸村/願主釈正□ 加能史料戦国Ⅺp.72
永誓寺所蔵
田崎村 (珠々ヵ) 元亀4.11.4 1573 〔神保綱親田地寄進状〕奉寄進田崎村道場之事、田地卅苅幷居屋敷共ニ、寄進申所実正也、其外諸役皆免ニ申定/候、雖為小寺、行事等之儀も如形可被仰付候、此於下地、向後可有違乱候、仍永代之寄/進状如件、 加能史料戦国16p.102
金峰寺文書
小泊村☆ 鈴郡 天正5.3.15 1577 〔上杉謙信朱印状写〕於能州出候知行之覚/一、鈴郡蔵見之内小泊村/一、同伏見村/一、同細谷分/以上、 加能史料戦国16p.310
伊佐早謙採集文書
細谷村☆[46] 鈴郡 天正5.11.16 1577 〔上杉謙信朱印状〕飯田與三右衛門尉ニ落著知行之覚/鈴郡内/一、細谷村〈八拾九貫四百五拾七文〉、 神保越中守/同郡内/一、伏見村〈五拾七貫文〉、 上田井紀伊守分/以上、 加能史料戦国16p.364
岡田紅陽氏所蔵文書

所属郡不明

年月日 西暦 原     文 出  典
矢口村 永正7.⑤.16 1510 〔温井孝宗寄進状写〕能州鳳至郡之内下町野岩蔵寺孝宗私領之内奉寄進田地之事/合百苅者〈在所矢口村眞光散田之内、/年貢米参石壹斗、/上済六百八十文〉、/右意趣者、為弓矢名加・子孫繁昌、且者弟候了厳宗心為後生菩提、是ヲ奉寄進、於子/孫不可有違乱煩者也、 加能史料戦国Ⅵp.51
続汲古北徴録

  1. 徳田村。
  2. 中世得田保の内で、初め志良田村といったが、永徳3年(1383)11月15日の能登守護吉見氏頼書下(得田文書)に「しなの谷」とあるように「しなのたむら」と変化した(『日本歴史地名大系 石川県の地名』)。
  3. 代田村。
  4. 志々見村。
  5. 矢田村。
  6. 江曾村。
  7. 能登部下村。
  8. 西馬場村。
  9. 上湯川村。
  10. 曲村。
  11. 無関村。
  12. 能登部下村。
  13. 黒氏村。
  14. 羽坂村。
  15. 井田村。
  16. 曾良村。
  17. 鹿浪村。|
  18. 旧来の諸橋保に鵜川保・矢波村・大屋庄内山田村(現能都町)を加えた地域で、室町中・後期頃に守護畠山氏が能登国を一元的に掌握する過程で再編した郷名と考えられる(『日本歴史地名 石川県の地名』)。
  19. 下大沢村・上大沢村。
  20. 神和住村。
  21. 田村。
  22. 鹿浪村。
  23. 藤浪村。
  24. 波並村。
  25. 波志借村。
  26. 比良村。
  27. 宇留地村。
  28. 志賀浦村。
  29. 下唐川村・上唐川村。
  30. 新崎村。
  31. 七海村。
  32. 挿石村。
  33. 麦浦村。
  34. 七海村。
  35. 根木村。
  36. 乙崎村。
  37. 鹿島村。
  38. 沖波村。
  39. 中井両町。
  40. 本内村。
  41. 正院町。
  42. 飯田町。
  43. 集落は初め東の珠洲郡羽根村境の田ノ浦付近にあったが、棚木城の落城後に今の湾部に移転したと伝える(能登名跡志)。承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文に珠洲郡「宇出村」とみえ、公田数は一〇町七段で、江戸期の宇出津町・宇出津山分村付近に比定される。
  44. 宇出津町。
  45. 粟津村。
  46. 細屋村。