「丹後国」の版間の差分

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! style=width:10%|郷(里)!! style=width:10%|郡!! style=width:10%|年月日!! style=width:5%|西暦!! style=width:55%|原    文!! style=width:10%|出  典
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|比治里<br/>丹波里☆<ref>『丹後国惣田数帳』に「丹波郷」あり(宮津市史料 p.717)
|比治里<br/>丹波里☆<ref>『丹後国惣田数帳』に「丹波郷」あり(宮津市史料 p.717)</ref>||丹波郡||和銅2.-.-||709||【丹波】〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐 豊宇賀能売命也。||『日本古典文学大系 風土記』p.468
</ref>||丹波郡||和銅2.-.-||709||【丹波】〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐 豊宇賀能売命也。||『日本古典文学大系 風土記』p.468
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|大野郷☆||丹波郡||||8C||【大野】〔平城宮木簡〕丹後国丹波郡大野郷須(酒ヵ)米石部足五斗||宮津市史史料p.170
|大野郷☆||丹波郡||||8C||【大野】〔平城宮木簡〕丹後国丹波郡大野郷須(酒ヵ)米石部足五斗||宮津市史史料p.170
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===村<ref>文亀3年(1503)4月日「二箇益富保散用状」(石清水文書)に「二ヶ保倉村、益富保倉村」が見えるが、『大日本古文書』(6巻)所収の同文書ではいずれも「倉付」となっており、『宮津市史 史料編』の誤写と考え「倉村」は採らなかった。</ref>===
====村<ref>文亀3年(1503)4月日「二箇益富保散用状」(石清水文書)に「二ヶ保倉村、益富保倉村」が見えるが、『大日本古文書』(6巻)所収の同文書ではいずれも「倉付」となっており、『宮津市史 史料編』の誤写と考え「倉村」は採らなかった。</ref>====
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===竹野郡===
===竹野郡===
===郷(里)===
====郷(里)====
木津(きつ)、網野、鳥取(ととり)、小野、間人(たいざ)、竹野(たかの)
木津(きつ)、網野、鳥取(ととり)、小野、間人(たいざ)、竹野(たかの)
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|竹野郷☆||(竹野)||長禄3.5.3||1459||【竹野】〔丹後国惣田数帳 〕一、竹野郷 卅町一段十六歩内‖成吉三郎左衛門||宮津市史史料p.718<br/>成相寺蔵
|竹野郷☆||(竹野)||長禄3.5.3||1459||【竹野】〔丹後国惣田数帳 〕一、竹野郷 卅町一段十六歩内‖成吉三郎左衛門||宮津市史史料p.718<br/>成相寺蔵
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===村===
====村====
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===熊野郡===
===熊野郡===
===郷(里)===
====郷(里)====
田村、佐濃(さの)、川上、海部(あま)、久美
田村、佐濃(さの)、川上、海部(あま)、久美
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|海士郷☆||(熊野)||長禄3.5.3||1459||【海部】〔丹後国惣田数帳〕一、海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎||宮津市史史料p.722
|海士郷☆||(熊野)||長禄3.5.3||1459||【海部】〔丹後国惣田数帳〕一、海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎||宮津市史史料p.722
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===村===
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===所属郡不明===
===所属郡不明===
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====郷(里)====
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|安重郷<br/>(安重保)||||至徳2.7.2||1385||〔日記〕二日‖就中申入云、丹後国安重郷事、去年夏比被相副調度之文書、勘解由小路侍従行俊朝臣被寄進当社候‖四日晴/今日、御所ハ、伊勢入道館ニ御風呂被遊之間、‖以山階中将殿、一昨日被仰下丹後国安重保事、行俊朝臣被申之趣、申入候処、此上者傍例事有無ヲ可有御尋奉行云々。||宮津市史史料p.330<br/>『師守記』至徳2.7.2条
|安重郷<br/>(安重保)||||至徳2.7.2||1385||〔日記〕二日‖就中申入云、丹後国安重郷事、去年夏比被相副調度之文書、勘解由小路侍従行俊朝臣被寄進当社候‖四日晴/今日、御所ハ、伊勢入道館ニ御風呂被遊之間、‖以山階中将殿、一昨日被仰下丹後国安重保事、行俊朝臣被申之趣、申入候処、此上者傍例事有無ヲ可有御尋奉行云々。||宮津市史史料p.330<br/>『師守記』至徳2.7.2条
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===村===
====村====
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2023年10月24日 (火) 19:10時点における最新版

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本データベースは、未だ試験的な運用段階にあり、これから改良・整備しながら、掲載国数を徐々に増やしていく予定です。
また、郷村表はもともと各国担当者によってWordで作成されており、これを、「ムラの戸籍簿」研究会事務局で集約して公開用に変換しております。
変換作業上、特殊な文字や史料表記について、やむをえず作成者の作成した文字データが反映されていない部分のありますことをご承知おきいただけましたら幸いです。
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作成者:谷昇

郷村名郡別世紀別初出表

郷村

世紀
郷(里)
7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 未詳 合計
合計 21 4 1 5 7 1 1 40 4 1 1 3 7 5 9 11 41
加佐郡 3 3 2 1 1 10 1 3 3 4 2 13
与謝郡 5 1 1 1 1 9 1 1 3 1 3 8 17
丹波郡 3 3 6 2 2
竹野郡 6 1 7 1 1 1 1 1 1 6
熊野郡 4 1 1 6 1 1 2
所属郡不明 2 2 1 1

概要

概要


典拠史料

『宮津市史』通史編(上下)、史料編(1-5)
『舞鶴市史』通史編(上中下)、史料編
『大宮町誌』本編、史料編
『伊根町誌』(上下)
『網野町誌』(上中下)
『加悦町史』資料編(1、2)
『久美浜町誌』史料編
『峰山郷土史』(上下)
『野田川町誌』
『弥栄町史』
『丹後町史』
『岩滝町誌』
「丹後国風土記 逸文」(日本古典文学大系『風土記』)

凡例

宮津市史史料=『宮津市史 史料編 第一巻』、舞鶴市史料=『舞鶴市史 史料編』、〔平〕=『平安遺文』〔鎌〕=『鎌倉遺文』、を示す。
『和名抄』高山寺本による郷名を付記、括弧内は東急本。

郷村表

加佐郡

郷(里)

志楽、掠橋(高橋)、大内、田辺(田造)、凡海(おおしあま)、志託(したか)、有道(ありち)、川守、余戸

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
白薬里(志楽郷) 加佐郡 709
8C
〔藤原宮木簡〕丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚腊一斗五升和銅二年四月 宮津市史史料p.165
志宅里(志託郷) (加佐) 8C 【志託】〔平城宮木簡〕□□郡志宅里猪食部装白米五斗 宮津市史史料p.168
余戸郷☆ (加佐) 8C[1] 【余戸】〔弥栄町遠所遺跡木簡〕余戸郷□真成田租籾五斗 宮津市史史料p.170
大内郷☆
田辺郷
倉橋郷(掠橋郷)
伽佐郡
(加佐)
寿永3.4.16 1184 【大内】【田辺】【掠橋】〔平辰清所領寄進状案〕寄進 所領大内郷事/在丹後国管伽佐郡内/四至/東限丹後国何鹿郡八田上林‖西限田辺郷堺子午仟佰并赤前山/南限丹波国八田郷堺三俣谷/北限余部堺方神山并倉橋郷堺‖右件郷者、辰清相伝私領也。而正暦元年三月廿五日、被盗取本文書之後‖先祖平厚正触在庁、請証判畢‖而今為募御勢、‖永所令寄進八条院女房弁殿御局也‖/寿永三年四月十六日 散位平朝臣辰清〈在判〉 宮津市史史料p.152
東寺百合文書ホ
〔平〕4154
河守郷☆(川守郷) (加佐) 康永2.3.12 1343 【川守】〔丹後守護〈仁木頼章〉袖判下文〕丹後国河守郷代官職事、任先例致其沙汰、年貢以下無懈怠可取進之状、如件。 宮津市史史料p.288
久下文書
(兵庫県史)
春日部郷 (加佐) 正平-.6.11 (1346) 〔新待賢門院〈阿野康子〉令旨〕就志楽庄春日部郷事、以御使被仰子細候。委令尋聞給。無相違之様可被計申由、新新待賢門院内々被仰下候也/仍執達件如/六月十一日 経国/西大寺長老御房 宮津市史史料p.618
西大寺文書
凡海郷 (加佐) 永享3.12.27 1431 【凡海】〔御前評定目録〕一、建福寺雑掌与梵積都官〈号松月庵〉相論、丹後国凡海郷代官職事/如雑掌訴状者、相替先規得分減少之間、去応永廿七年、為糺明奉憑彼都官‖可沙汰付下地於雑掌旨、可成御教書也矣/永享三年十二月廿七日 大和守貞連/左衛門尉秀藤 宮津市史史料p.353
室町幕府引付史料集成
在治郷
(有道[2])
(加佐) (永禄)11.10.14 1568 【有道】〔織田信長朱印状〕丹州本知並丹後国在治郷上下・寺社本所、付諸奉公方、任 御下知之旨、不可有相違之状、如件。 宮津市史史料p.455
渡辺家文書
(大江町史)

年月日 西暦 原 文 出 典
河部村☆ 加佐郡 天養1.6.4 1144 〔河辺八幡神社棟札銘[3]〕大願主御代官左衛門尉藤原秀□氏 藤原光行/奉修造岩津森□□天養元年六月四日河部村氏人等 宮津市史史料p.176
平安遺文金石
吉津坂村☆[4] 加佐郡 承久1.9.23 1219 〔安永倉門吉永田地寄進状写〕志楽庄安永名之内、奉寄進西願寺領事/合漆斗代壱段者 在所〈吉津坂村/道祖神道〉 宮津市史史料p.594
舞鶴市金剛院蔵
与保呂村☆ (加佐) 建長3.8.3 1251 〔鎌倉将軍〈九条頼嗣〉家政所下文〕将軍家政所下 丹後国倉橋庄内与保呂村住人/補任地頭職事/前宮内大輔平朝臣/右人、為彼職、任先例、可致沙汰之状如件、以下 宮津市史史料.668
朽木家文書
〔鎌〕7332
春日部村 加佐郡 永仁7.4.18 1299 〔地頭政所某田畠宛行状〕春日部村滝官跡延真末守両名田畠以下事/右件名田畠等者、本主号官去年松尾寺性智法師亀熊丸依殺害之事、寺中被追放之時、当名田畠等一旦政所ニ被召置之処 舞鶴市史史料p.568
梅垣西浦文書
八田村☆ (加佐) 康永4.3.4 1345 〔左兵衛尉某田地寄進状〕奉寄進/田辺郷八田村内八幡宮毎月朔幣祭礼料田事/合弐段者 宮津市史史料p.571
舞鶴市桂林寺文書
勝浦村 加佐郡 貞和2.12.27 1346 〔足利直義袖判下文〕下 佐々木加地有王丸/可令早領知伊予国津根郷野田村并宇摩新庄内池田村・丹後国余戸里勝浦村地頭職事/右任亡父信長建武二年三月廿九日譲状、可令領掌之状、如件 宮津市史史料p.658
京都鹿王院文書
朝来村☆ (加佐) 観応1.12.27 1350 〔足利尊氏寄進状〕奉寄/醍醐寺/丹後国志楽庄内朝来村地頭職事/右、為当寺修造所寄進也。守先例可致沙汰之状、如件 宮津市史史料p.577
醍醐寺文書
丸田村☆
和江村☆
二ヶ村
(二箇村)
四ヶ村
(四箇村)
加佐郡 長禄3.5.3 1459 〔丹後国惣田数帳[5]〕一祇園寺庄 六十五町三百卅四歩内/十二町三段百五拾一歩 丸田村/羽太修理進‖
一□□郷 四十九町九段二百九十二歩内/    四十五歩 和江村/岸九郎左衛門‖
一有道郷 五十二町六段百一歩内/二ヶ村‖上ノ大方殿‖四ヶ村‖山名有道殿
宮津市史史料p.709、710
成相寺蔵
水真村☆[6] 加佐郡 永正17.12.27 1520 〔若狭守護〈武田紹壮〉内書〕丹後国加佐郡之内水真村之事、年貢諸成物寺社等無相違可有知行候。闕所方之事者、可為最前定置趣候也。 宮津市史史料p.685
福井県白井家文書
余部上村☆
(余部以上村)
加佐郡 文禄3.1.23 1594 【余戸郷】〔細川藤孝書状〕丹後国加佐郡余部以上村内百石、為薬料加扶助候、全可有知行事肝要候 宮津市史史料p.494
萩藩閥閲録

与謝郡

郷(里)

宮津、日置、拝師(はやし)、物部、山田、謁叡(あちえ)(神戸)

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
日置里☆
筒川郷



(日置郷)
与謝郡




(与謝)
和銅2.-.- 709





8C
【日置】〔丹後国風土記 浦嶼子〕丹後国風土記曰、与謝郡日置里、此里有筒川村。此人夫‖云筒川嶼子。‖嶼子独乗小船、汎出海中為釣‖得五色亀。心思奇異、置于船中即寝、忽為婦人‖女娘取玉匣授嶼子‖教令眠目、忽到本土筒川郷


〔平城宮木簡〕丹後国与社郡日置郷庸米六斗/宇良婇部身万呂

『日本古典文学大系 風土-記』p.475,476


宮津市史史料p.168

速石里




(速石郷)
(拝師郷)
与謝郡




(与謝)
和銅2.-.- 709





8C
【拝師】〔丹後国風土記 天橋立〕丹後国風土記曰、与謝郡郡家東北隅方、有速石里。此里之海、有長大前‖先名天椅立。後名久志浜。然云者、国生大神伊射奈芸命、天為通行、而椅作立、故云天椅立。


〔平城宮木簡〕□□速石郷白米五斗

『日本古典文学大系 風土記』p.469


宮津市史史料p.169
謁叡郷 与謝郡 8C 【謁叡】〔平城宮木簡〕与社郡謁□(叡ヵ)郷□原里土部古□ 宮津市史史料p.166
宮津郷☆ (与謝) 8C 【宮津】〔平城宮木簡〕宮津郷烏賊二斤〈太〉 宮津市史史料p.166
波見郷 (与謝) 弘安1.12.8 1278 〔六波羅下知状〕東大寺領美濃国茜部庄雑掌与地頭代頼広相論請所并年貢絹・綿等事‖一、請所事/右、就訴陳状、於引付□□尋問両方之処、‖尾張国箆生御厨・丹後国波見・同田辺両郷関東御教書‖下知如件/弘安元年十二月八日/左近将監平朝臣/陸奥守平朝臣 宮津市史史料p.258
内閣文庫
〔鎌〕13316
余佐郷☆ 丹州 元亨2.-.- 1322 〔元亨釈書〕如意尼者、天長(淳和)帝之次妃也。丹州余佐郷人、居無常処、相羊山水之間、十歳入王都 宮津市史史料p.195
国史大系
物部郷 (与謝) 長禄3.5.3 1459 【物部】〔丹後国惣田数帳〕一、物部郷少神田 四段七十八歩 御免 宮津市史史料p.715
成相寺蔵
山田郷 (与謝) 年月日未詳 【山田】〔通玄寺并曇華院領目録〕通玄寺并曇華院領目録事/駿河国須津庄‖丹後国山田郷 宮津市史史料p.527
京都曇華院文書

年月日 西暦 原 文 出 典
筒川村 与謝郡 和銅2.-.- 709 〔丹後国風土記 浦嶼子〕丹後国風土記曰、与謝郡日置里、此里有筒川村。此人夫‖云筒川嶼子。‖嶼子独乗小船、汎出海中為釣‖得五色亀。心思奇異、置于船中即寝、忽為婦人‖女娘取玉匣授嶼子‖教令眠目、忽到本土筒川郷 『日本古典文学大系 風土-記』p.475
溝尻村☆ 与謝郡 文治4.2.4 1188 〔銅製経筒銘〕南閻浮提大日本国山陰道丹後国/与謝郡拝師郷溝尻村/奉如法書写妙法蓮華経一部十巻‖采女秋重等 宮津市史史料p.764
籠神社蔵
野間村
世野村☆
(与謝) 貞永1.4以前 1232以前 〔丹後国在庁官人等申状〕丹後国在庁官人等/言上国領野間世野村〈惣名永久保〉号山門使、不帯院宣・御庁宣・証文等、捧神宝令下向、欲令押領子細状/右、件使等去五月国御得替之刻、乱入彼両村、可為山門□((領ヵ))由張行之旨、依令風聞 宮津市史史料p.248
民経記裏文書
〔鎌〕4316
与保呂村 (与謝) 建長3.8.3 1251 〔鎌倉将軍家政所下文〕将軍家政所下 丹後国倉橋庄内与保呂村住人/補任地頭職事/前宮内大輔平朝臣/右人、為彼職任先例、可致沙汰之状如件、以下/建長三年八月三日 案主菅野‖別当陸奥守平朝臣(花押)/相模守平朝臣(花押) 宮津市史史料p.668
朽木家文書
大石庄上下村(大石上村、大石下村) (与謝) 永徳3.5.- 1383 〔常在光寺目安案〕□安/常在光寺‖丹後国大石庄上下村并稲富名‖右、彼所々地頭職等被成下官符宣之□、被経御執奏、弥全寺用、為奉成天下泰平御祈祷 宮津市史史料p.328
壬生家文書
栗田村 (与謝) 長禄3.5.3 1459 〔丹後国惣田数帳〕一、宮津庄百五十五町三百十二歩内‖十三町四段二百四十一歩 栗田村/御料所 宮津市史史料p.714
成相寺蔵
伊振村[7]
小泊村☆
(与謝) 文明14.8.9 1482 〔七所社修造棟札銘〕‖七所社修造事始文明十四〈乙亥、時卯〉仮殿出御同十三日〈己卯、時戌〉上棟同廿六日〈壬辰、時申〉御遷宮九月三日〈己亥、時戌〉‖伊根村 小泊村 沙汰之。泊 刀祢、泊 西大夫 大郎四郎権守、伊振岡 次郎左衛門、泊新屋 彦大夫、伊振入垣 孫四郎 宮津市史史料p.782
伊根町七神社蔵
新井村☆
峠村☆
殿村
(与謝) 天文4.⑩.22 1535 〔津母宮修造棟札銘〕津母御宮造立給用途事‖新井村五百文加め一峠村五百文加め一‖伊振村五百文加め一 殿村五百文加め一 宮津市史史料p.785
伊根町津母八坂神社蔵
日出村☆
高梨村
平田村☆
(与謝) 天文18.11.19 1549 〔遷宮奉仕人数棟札銘〕奉造立伊祢庄山王社御遷宮時御百姓中官途之人数‖日出村/上之権守‖高梨村/奥之権守 平田村/刀祢権守 宮津市史史料p.785
宮津市岩ヶ鼻日吉神社蔵
江尻村☆ (与謝) 天文8.8.17 1580 〔明智光秀・細川藤孝・忠興連署禁制〕禁制 丹後国江尻村/一 当手軍勢甲乙人乱暴狼籍事/一 苅田事/一 放火事/右条々、堅令停止訖。若背此旨違犯輩於在之者、速可処厳科者也。仍下知如件。 宮津市史史料p.518
成相寺文書
田井村☆ (与謝) 文禄5.5.- 1596 〔木造薬師如来坐像膝裏銘〕奉願養福□□□/田井村長久処也/□禄五丙申年五月□ 宮津市史史料p.776
宮津市養福寺

丹波郡

郷(里)

大野、新治(にいはり)、丹波、周枳(すき)、三重、(神戸(かんべ))、(口枳(くちのすき))

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
比治里
丹波里☆[8]
丹波郡 和銅2.-.- 709 【丹波】〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐 豊宇賀能売命也。 『日本古典文学大系 風土記』p.468
大野郷☆ 丹波郡 8C 【大野】〔平城宮木簡〕丹後国丹波郡大野郷須(酒ヵ)米石部足五斗 宮津市史史料p.170
三重郷☆
新治郷☆
周枳郷☆
(丹波郷)
丹波郡 長禄3.5.3 1459 【三重】【新治】【周枳】〔丹後国惣田数帳 〕丹波郡/一、三重郷 廿二町五段三百卅歩内/‖禅林寺‖一、新治郷‖周枳郷‖丹波郷 宮津市史史料p.715、717、718
成相寺蔵

[9]

年月日 西暦 原 文 出 典
荒塩村
哭木村
(名木村)
(丹波) 和銅2.-.- 709 〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐 豊宇賀能売命也。 『日本古典文学大系 風土記』p.468
新治村☆ (丹波) 年月日未詳 【新治】〔石造地蔵菩薩立像銘〕施主/新治村清心 宮津市史史料p.790
宮津智恩寺蔵

竹野郡

郷(里)

木津(きつ)、網野、鳥取(ととり)、小野、間人(たいざ)、竹野(たかの)

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
船木里☆






(舟木郷)
竹野郡






竹野郡
和銅2.-.- 709







8C
〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐 豊宇賀能売命也。

〔平城宮木簡〕丹後国竹野郡舟木郷〈生部須[ ]斗〉

『日本古典文学大系 風土記』p.469




宮津市史史料p.166
網野郷☆ 竹野郡 天平勝宝4.10.25 752 【網野】〔造東寺司牒〕造寺司 牒三綱所/合奉充封壱千戸‖丹後国伍拾戸〈竹野郡網野郷〉‖以前、寺家雑用料、永配件封、当年所輸之物為始、奉充如件、今以状牒、〻至准状、故牒、/天平勝宝四年十月廿五日主典従七位上阿刀連酒主次官正五位上兼行下総員外介佐伯宿禰今毛人/判官正六位上大蔵伊美吉万里/判官正六位上石川朝臣豊麻呂 宮津市史史料p.34
正倉院文書
〔平〕587
鳥取郷☆[10] 竹野郡 8C 【鳥取】〔平城宮木簡〕丹後国竹野郡鳥取郷[  宮津市史史料p.166
芋野郷☆[11] 竹野郡 8C 〔平城宮木簡〕丹後国竹野郡芋野郷‖部古与曽赤春(舂)米五斗 宮津市史史料p.166
間人郷☆ 竹野郡 8C 【間人】〔平城宮木簡〕丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤 宮津市史史料p.167
木津郷 竹野郡 8C 【木津】〔平城宮木簡〕丹後国竹野郡木津郷紫守部与曽布五斗 宮津市史史料p.167
竹野郷☆ (竹野) 長禄3.5.3 1459 【竹野】〔丹後国惣田数帳 〕一、竹野郷 卅町一段十六歩内‖成吉三郎左衛門 宮津市史史料p.718
成相寺蔵

年月日 西暦 原 文 出 典
奈具村 竹野郡 和銅2.-.- 709 〔丹後国風土記 奈具社〕丹後国風土記曰、丹後国丹波郡々家西北隅方、有比治里。此里比治山頂有井、其名云真奈井、今既成沼。此井天女八人、降来浴水‖後老夫婦等、謂天女曰、汝非吾児、暫借住耳、宜早出去。天女流涙微退門外、謂郷人曰、久沈人間、不得還天、復無親故、不知由所居。吾何々哉々、拭涙蹉歎、仰天‖遂退去而至荒塩村、即謂村人等云、思老老夫婦之意、我心无異荒塩者。仍云比治里荒塩村。亦至丹波里哭木村、拠槻木而哭、故云哭木村。復至竹野郡船木里奈具村。‖仍留居此村。斯所謂竹野郡奈具社坐。 『日本古典文学大系 風土記』p.469
松原村[12] 竹野郡 貞観5.11.17 863 〔日本三代実録〕丹後国言、細羅人来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎鳥舎漢書答云、新羅東方別嶋、細羅国人也。自外更無詞 豊宇賀能売命也。 日本三代実録
国史大系p.119
雄坂村☆
(尾坂村)
竹野郡 延久1.10.13 1069 〔雄坂寺棟札銘[13]〕南閻浮提大日本国丹後州竹野郡雄坂村鷲尾山尾坂寺‖雄坂村庄官本願仁/真芝九右衛門順珍‖(裏)尾坂村共曰/村無喧盗工/家無病火禍 宮津市史史料p.175
丹後町徳運寺蔵
恒枝村 (丹波) 弘安3.1.26 1280 〔丹波守寄進状〕寄進縁城寺之田事/合三段者‖右以恒枝村二分内一色田所令寄進当寺也。早致丁寧之志、可抽祈祷之功‖弘安三年正月二十六日/(花押) 丹後国中郡誌稿p.278
縁城寺文書
木橋村☆ (丹波) 暦応4.5.12 1341 〔藤原兼泰寄進状〕縁城寺奉寄進観音経田事/合一段者‖右件田地者、木橋村地頭分也。然兼泰為現当二世、悉地成就永代所奉寄進也‖暦応四年五月十二日 藤原兼泰(花押) 丹後国中郡誌稿p.281
縁城寺文書

熊野郡

郷(里)

田村、佐濃(さの)、川上、海部(あま)、久美

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
河上郷
(川上郷)
(熊野) 8C 【川上】〔平城宮木簡〕川上郷赤米 宮津市史史料p.16
田村郷 熊野郡 8C 【田村】〔平城宮木簡〕丹後国熊野郡田村郷神人丈万呂五斗 宮津市史史料p.166
私部郷 熊野郡 8C 〔平城宮木簡〕丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄[ ]〈納一斗五升〉 宮津市史史料p.167
久美里☆ 熊野郡 8C 【久美】〔平城宮木簡〕丹後国熊野郡久美里□[ 宮津市史史料p.168
佐野郷☆ 熊野郡 嘉応2.9.20 1170 【佐野】〔円頓寺経筒銘〕‖釈迦末法代於南閻浮提大日本国山陰道丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺如法妙法蓮華経一部十巻奉書写畢/嘉応二年〈庚寅〉九月廿日〈丁酉〉鋳師伴成包/願主 散位従五位下 大江朝臣忠氏 宮津市史史料p.176
京都府史蹟勝地調査会報告
海士郷☆ (熊野) 長禄3.5.3 1459 【海部】〔丹後国惣田数帳〕一、海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎 宮津市史史料p.722

年月日 西暦 原 文 出 典
大治村 熊野郡 嘉応2.9.20 1170 〔円頓寺経筒銘〕‖釈迦末法代於南閻浮提大日本国山陰道丹後国管熊野郡佐野郷大治村円頓寺如法妙法蓮華経一部十巻奉書写畢/嘉応二年〈庚寅〉九月廿日〈丁酉〉鋳師伴成包/願主 散位従五位下 大江朝臣忠氏 宮津市史史料p.176
京都府史蹟勝地調査会報告
市場村☆ (熊野) 天正15.12.19 1587 〔松井康之知行充行状〕以市場村野内五拾石、/都合百弐拾五石進之候、全御領知肝要候 宮津市史史料p.489
八代市竹田家文書

所属郡不明

郷(里)

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
忠高郷 徳治1.4.- 1306 〔昭慶門院〈憙子内親王〉御領目録〕御領目録‖一、恩徳院領‖丹後国善住寺〈種清 御年貢千五百疋内 忠高郷分五百疋〉/忠高郷〈山僧仲房注記〉 宮津市史史料p.268
個人蔵
〔鎌〕22661
安重郷
(安重保)
至徳2.7.2 1385 〔日記〕二日‖就中申入云、丹後国安重郷事、去年夏比被相副調度之文書、勘解由小路侍従行俊朝臣被寄進当社候‖四日晴/今日、御所ハ、伊勢入道館ニ御風呂被遊之間、‖以山階中将殿、一昨日被仰下丹後国安重保事、行俊朝臣被申之趣、申入候処、此上者傍例事有無ヲ可有御尋奉行云々。 宮津市史史料p.330
『師守記』至徳2.7.2条

年月日 西暦 原 文 出 典
小河村 長享2.7.5 1488 〔蔭涼軒日録〕西芳寺領所々目録‖丹後国小河村并成富保 陸拾貫文 宮津市史史料p.401
蔭涼軒日録

  1. この史料は、奈文研木簡DBに見えず、『京都府埋蔵文化財情報』(47、1993年)に写真が掲載されている。「余戸郷」は、平城京・平城宮木簡中に所見するので「8世紀」としておく。
  2. 長禄年間(1457-60)「丹後国惣田数帳」に「有道郷」(宮津市史料p.709)あり。
  3. 『平安遺文』金石文編には、「本棟札銘は稍疑うべし」との注記がある。
  4. 永正3年(1506)9月晦日「志楽庄年貢等注文」に「木津坂村」あり、同じ村と考える。
  5. 『丹後国惣田数帳』(成相寺蔵)……「正応元年(1288)8月日」の年記があり、奥に「長禄3年(1459)5月3日 国富兵庫助帳写也」ほか、享禄4年(1531)・弘治3年(1557)の年記がある。内容は、「十五世紀中頃の状況を示していることから、書写年代である長禄三年(一四五九)をさほど遡らない時期に作成されたもの」(『宮津市史 史料編』p.221)と推定されている。したがって長禄の奥書をいちおう成立年代とした。
  6. のち「水間村」
  7. 宮津史史料編には「伊根村」とあるが、札銘の内容からして「伊振村」の誤記または誤写と考える。『京都府の地名』「泊村」「伊室村」の項でも「伊振村」としている。
  8. 『丹後国惣田数帳』に「丹波郷」あり(宮津市史料 p.717)
  9. 文亀3年(1503)4月日「二箇益富保散用状」(石清水文書)に「二ヶ保倉村、益富保倉村」が見えるが、『大日本古文書』(6巻)所収の同文書ではいずれも「倉付」となっており、『宮津市史 史料編』の誤写と考え「倉村」は採らなかった。
  10. 藤原宮木簡に「丹波国竹野評鳥取里」あり(宮津市史史料p.167)、木簡以外の文書では、天平11年(739)10月「調庸綾絁墨書銘」(正倉院宝物銘文集成)に「丹後国竹野郡鳥取郷□(深ヵ)田里……」とある(宮津市史史料p.174)
  11. 文治元年(1185)ヵ8月「某重陳状」に「芋野郷」所見(宮津市史料p.155)
  12. 『日本紀略』は「相原村」に作り、『宮津市史 史料編』はこちらを載せるが、現在に小字名を残す「松原村」を採る。
  13. 注記あり「この棟札には、延久元年の年紀があるが、作成年代はそれより下るものと考えられる」