周防国

提供:「ムラの戸籍簿」データベース
2018年9月22日 (土) 19:26時点における小さ子社 (トーク | 投稿記録)による版

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本データベースは、未だ試験的な運用段階にあり、これから改良・整備しながら、掲載国数を徐々に増やしていく予定です。
また、郷村表はもともと各国担当者によってWordで作成されており、これを、「ムラの戸籍簿」研究会事務局で集約して公開用に変換しております。
変換作業上、特殊な文字や史料表記について、やむをえず作成者の作成した文字データが反映されていない部分のありますことをご承知おきいただけましたら幸いです。
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作成者:松井直人

郷村名郡別世紀別初出表

概要

概要

〇地理:現在の山口県の南部に相当。北は長門国(山口県北部)及び石見国(島根県西部)、東は安芸国(広島県西部)、西は関門海峡を隔てて豊前国(福岡県東部・大分県北部)に接する。
〇古代:『日本書紀』には「周芳」と書かれ、「すは」或いは「すはう」と読む。土着の国造のうち周防国造が最も有力で、大化改新以後「凡直」となり、周防全域に勢力を拡大。『延喜式』によれば上国とされ(実際は9c中期頃に昇格したとみられる。)、国府は佐波郡に置かれた。
天長2年(825)に鋳銭司が長門国から周防国(吉敷郡)へ移管。皇朝十二銭の内、第五番目の富寿神宝から最後の乾元大宝までの八銭が鋳造された。
また、初期荘園として東大寺領の吉敷郡椹野荘が知られる。
〇中世:院政期には知行国制のもと、白河・後白河院の私領となった。
治承4年(1180)冬、東大寺が平重衡によって焼き払われると、後白河院の勅願により、周防国は東大寺造営領国となる(寺院知行国は初例)。国務を大勧進の俊乗房重源が掌握。用材の調達のみならず、租税・人夫の徴収・徴発、勢力を強める地頭・在庁官人らとの対応などにあたった。
再建事業が終わると、山城国法勝寺領九重塔造営領国→感神院領となるも、東大寺の度重なる強訴により、寛喜3年(1229)、再び東大寺領国となる。これに対し大内氏をはじめとする在庁官人や地頭らは激しく抵抗。国衙領の蚕食を進め、室町期には守護大内氏が国府の実権を掌握した。大内氏滅亡後、毛利氏による支配へと移行した。
〇和名抄にみえる郡…大島(おおしま)・玖珂(くが)・熊毛(くまげ)・都濃(つの)・佐波(さば)・吉敷(よしき)
※玖珂郡は養老2年(711)に熊毛郡から分立。この区分が古代~中世を通じて維持された。

典拠史料

・自治体史(史料編)
『山口県史』古代 *県史古
『同』中世1~4 *県史中〈巻数〉 
『同』中世防長荘園史料(CD-ROM版) *県史中荘園
『山口市史』大内文化 *山口市史大内文化
・その他
『鎌倉遺文』 ※「CDROM版鎌倉遺文」を用いた。 *鎌遺〈巻数〉
『南北朝遺文』中国・四国編 1~6巻 *南北遺〈巻数〉
『萩藩閥閲録』1~4巻、遺漏  *萩閥〈巻数〉
『三浦家文書』大日本古文書家わけ14 *郷村表にはなし
「大内氏掟書」『中世法制史料集』3 武家家法Ⅰ *中世法制史料集〈巻数〉
井上聡・村井祐樹「萩博物館寄託「杉家文書」」『萩博物館研究報告』(3)、2007 *萩博杉家文書
内田伸『山口県の金石文』マツノ書店、1990 *山口金石文

凡例

巻数は◯数字で示した

郷村表

大島郡

郷(里)

屋代、美敷、務理

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
屋代郷☆ 大島郡 天平4.4.- 732 〔長登銅山跡出土木簡〕【屋代郷】周防国大島郡屋代郷□□里□□調里 県史古p.811
長登銅山跡2
美敷郷 大島郡 天平7.9.- 735 〔平城京跡出土木簡〕【美敷郷】周防国大嶋郡美敢郷[1]美敢里酒人部麻志調塩三斗 県史古p.834
平城宮発掘調査出土木簡概報29
務理郷 大島郡 天平勝宝5.9.- 753 〔平城京跡出土木簡〕【務理郷】周防国大嶋郡務理郷平群部岡調塩三斗 県史古p.834平城宮発掘調査出土木簡概報31
三蒲郷☆ 大島郡 永禄9.10.3 1566 〔村上通康安堵状〕周防国大嶋郡屋代嶋三蒲郷松尾寺住持職之事、為師相続所申付也、 県史中②p.106
松尾寺文書

年月日 西暦 原 文 出 典
椋野村☆ (大島) 至徳2.10.1 1385 〔大内義弘知行充行状〕周防国屋代北方内、/椋野村事、所充行也、/任先例可致沙汰之状如件、 萩博杉家文書p.1

玖珂郡

郷(里)

玖珂、柞原、野口、多仁、由宇、大野、伊実、石國

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
玖珂郷 玖珂郡 延喜8.-.- 908 〔延喜八年周防国玖珂郡玖珂郷戸籍〕【玖珂郷】周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍公文 県史古p.230滋賀県大津市石山寺蔵
伊実(宝)郷[2] (玖珂) 延喜8.-.- 908 〔延喜八年周防国玖珂郡玖珂郷戸籍〕【伊実郷】早良田吉年陸拾壱 老丁〈付伊宝郷戸主和尓/マ今男戸〉 県史古p.229滋賀県大津市石山寺蔵
柞原郷 (玖珂) 延喜8.-.- 908 〔延喜八年周防国玖珂郡玖珂郷戸籍〕【柞原郷】秦氏助年参拾肆レ 正丁〈付柞原郷戸主秦末/成戸〉 県史古p.229滋賀県大津市石山寺蔵
志福万郷☆
(渋前)
(玖珂) 建武5.1.6 1338 〔某袖判盛澄奉書〕志福万郷内清大夫助遠令焼畑之由其聞候間、於彼跡者宗房ニ御計候也、可令存其旨給之由候也、仍執達如件、 県史中③p.938
助藤家文書
河内郷☆ (玖珂) 暦応3.12.- 1340 〔某書下写〕河内郷日光寺免田壱町陸段百歩、任永仁正安下知、所当公事以下所被免除也、早会茂氏管領宜致造功之状如件、 南北遺①p.360
岩国徴古館蔵岩邑若干集所収
伊賀道郷☆
(伊陸)
(玖珂) 正平6.12.23 1351 〔足利義詮寄進状〕寄附/東福寺/周防国伊賀道郷〈町野肥前太郎/左衛門尉跡〉地頭職事/右、為僧食料所、所寄附也者、早守先例、可被致沙汰之状如件、 南北遺③p.67
前田家所蔵文書古蹟文徴三
余戸里 (玖珂) 応安4.11.30 1371 〔春屋妙葩袖判寄進状〕奉寄附/稲荷社修理田事/合壱段者〈在所者余戸里内/浮免松尾口也〉/右田地者、為修理永代奉寄進当社也 県史中②p.130
永興寺文書
日積郷[3] (玖珂) 応永7.9.12 1400 〔大内弘茂代官職充行状〕周防国日積郷南方代/官職事、所充行也、守先例可致沙汰之状如件 萩博杉家文書p.3
由宇郷☆ (玖珂) 応永19.10.21 1412 〔大内徳雄〈盛見〉安堵状〕【由宇郷】周防国由宇郷正覚寺領事、任去永徳四年二月廿九日香積寺殿証判之旨、寺務不可有相違之状如件、 県史中④p.631
梶矢氏蔵文書
通津郷☆ (玖珂) 正長2.7.- 1429 〔須河二郎左衛門跡注文〕須河次郎左衞門跡跡事/合/通津郷内参斗 萩博杉家文書p.5
伊木見郷[4]
(生見)
(玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖伊木見郷 刀祢 舟越式部才判/一、高弐百壱石八斗三升 県史中②p.195
三井家文書
阿賀郷☆ (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖阿賀郷 刀祢 錦見仁儀才判/一、高百六拾九石八斗九升 県史中②p.195
三井家文書
飯田郷 (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖外ニ加村/西畑畑/五拾四石九斗五升/附、わり谷、向畑共ニ/九拾弐石弐斗四升/附、河平、南桑、飯田郷、滝ノ口共ニ/已上百四拾石壱斗九升 県史中②p.195
三井家文書
広瀬郷☆ (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖広瀬郷 刀祢 広瀬主計之助才判/一、高百四拾九石八斗壱升 県史中②p.195
三井家文書
本郷郷[5] (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖本郷郷 刀祢 山代主計丞才判/一、高百五拾壱石七斗五升/附、郷中畑之大谷、亀尾川共ニ 県史中②p.196
三井家文書
三瀬川郷☆
(三千皮郷)
(玖珂) 大永3.-.- 1523 〔周防国玖珂郡山代拾三ヶ村御検地被仰付候辻を以石定高帳〕[6]大永三之秋庄内拾三ヶ村御検地被仰付候辻を以石定高帳‖五ヶ村高/〇以上八百石定/八ヶ村高/△以上八百石定/五拾六石四斗定《右同加村》三千皮郷△ 県史中④p.577
松原家文書
岩国郷[7] 玖珂郡 天正2.8.22 1574 〔毛利輝元住持職安堵状〕【石國郷】防州玖珂郡岩国郷無量寺住持職事、対善芳首座、去弘治二年八月十六日任常楽寺殿御証判旨、加裁許訖者、早寺家云寺領、執務不可有相違状如件、 萩閥②p.499
土肥十兵衛
玖珂本郷☆ (玖珂) 天正19.11.15 1591 〔毛利氏奉行人連署打渡状〕御郷勘兵衛尉/一、弐百石定/内/七拾石五斗五升 持留分/百拾石五斗 《渡辺上地》玖珂本郷/拾八石九斗七升 《別符上地》通津/以上弐百石/右之辻、以七端帆船壱艘ニ被相定候之条、可抽馳走事肝要候、仍打渡如件、 県史中②p.667
御郷家文書

年月日 西暦 原 文 出 典
祖生村[8] 玖珂庄
(玖珂)
治承4.1.17 1180 〔伊都岐島水精寺牒案〕水精寺牒 社家政所/欲被補以仲覚大徳、当寺御領周防国玖河《珂》庄祖生村沙汰人職事 県史古p.694
厳島神社文書野坂文書
与田本村 (玖珂) 寛元2.4.- 1244 〔僧源尊重申文案〕周防国与田保公文僧源尊重言上/為当保地頭朝兼法師〈法名覚念〉□□□譜代相伝公文職□□□□□掠申当知行由、賜関東下御文、令損亡、源尊剰或申代官、或申相伝所従、構種種虚言、致無道陳訴、無謂子細事、‖今覚念先祖保司之時、開発之地ト申者在此内、保司田ト申坪同在此内、与田本村之許ヲ依湛与之和与、朝俊為地頭職、可称申先祖開発之地者、先可望申彼領者也 鎌遺⑨p.84
内閣文庫所蔵周防国古文書
宇佐村[9] 山代庄
(玖珂)
永享9.8.- 1437 〔宇佐八幡宮鉄燈籠〕山代庄宇佐村長兼 大工藤原朝臣安信 山口金石文p.232
余田村☆ 玖珂郡 文明12.3.26 1480 〔周防国熊毛郡宇佐木四方立写〕一、玖珂郡之内、立ヶ浜横川堺目也、はまの上ニ石仏堺め水ばしり東宇佐木也、此山の尾より上ニ岩有也、其外ニ横道有之、かきり田茂堤茂、にし戌亥之方ニ山尾有之、戌亥玖珂郡之内余田村、東熊毛也宇佐木村也、与田堺目ほうおんじ高山は余田、此山水はしり也、何時茂山ニ付、出入有之 県史中②p.165
長尾家文書
藤谷村☆ (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻/藤谷村畑 刀祢 林豊前才判/一、高九拾四石四斗四升 県史中②p.194
三井家文書
根笠村☆ (玖珂) 大永3.-.- 1523 〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖根笠村畑/四拾六石四斗壱升 県史中②
p.194
三井家文書
多田村☆ (玖珂) 永禄3.10.18 1560 〔毛利隆元知行充行状〕於防州瀬田七貫目、多田村畠三貫文地之事、為給地遣之置候、全可知行候、仍一行如件、 萩閥④p.113
渡辺五郎左衛門
須川村☆ (玖珂) (16C後期ヵ)1.28 〔毛利輝元書状〕為須川之村下使三家本宗右衛門申付之由可然候、何篇可辛労之由、可申聞之候、謹言
 東左京亮殿        輝元
県史中②p.178
三家本家文書

熊毛郡

郷(里)

周防、熊毛久末計・久萬介、多仁、美和、全戸、波濃

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
高尾郷[10] 熊毛郡 貞和3.11.11 1347 〔足利尊氏寄進状案〕寄進/八坂法観寺/周防国高尾郷事/右、息女女源氏〈法名/了清〉追善料所、所寄附也者、早守先例可致沙汰之状如件、 南北遺②p.260
山城法観寺文書
麻合郷 富仁庄
(熊毛)
応安3.2.6 1370 〔室町幕府将軍家〈足利/義満〉御教書案〕嵯峨善入寺領摂津国木工庄、近江国奥嶋坂田神田、越前国志比庄、備中国草壁東西、同国有漢保、周防国富仁庄麻合郷、淡路国委文庄、嵯峨中□敷地春木原中山高橋茶園并小田畠等事、貞治五年十一月廿七日先公御書、同六年四月八日安堵綸旨一見訖、寺務不可有相違之状、依仰執達如件、 武蔵守 御判 県史中④p.518
西家文書
来富郷 多仁庄
(熊毛)
応安3.10.23 1370 〔室町幕府御教書〕嵯峨善入寺雑掌申寺領周防国多仁庄内麻合郷・来富郷、称周護持者跡闕所、三宝院僧正拝領之間、先公御時非絶行欤、雖然依一旦住持護持者罪過、被没官寺領之間、武家経奏聞、公家被下安堵綸旨畢、此上退彼代官、可被打渡下地於雑掌之状、依仰執達如件、  武蔵守 御判 南北遺④p.293
京都大学文学部所蔵古文書集所収
波野郷 (熊毛) 至徳3.4.7 1386 〔足利義満御判御教書〕【波濃郷】永興寺領周防国屋代北方、石国本庄内横山・向棚井、波野郷内佐多・生野等事/右大内左京権大夫義弘朝臣申請、可令為当寺領之状如件、 県史中②p.130
永興寺文書
光井郷 (熊毛) (16C後期) 〔吉川元春・小早川隆景他二名連署書状〕伊賀道高山寺山門領光井郷之内六反半之事、今度須子給入組候付而闕所候、御使衆無案内之故候欤、 県史中④p308
下関市長府博物館蔵文書
八代郷 熊毛郡 (16C後期ヵ)[11] 〔内藤隆春分領惣田数付立〕防長之内隆春分領惣田数辻之事‖周防熊毛郡之内‖同郡之内/一、三町弐反 八代郷 萩閥③p.143
内藤小源太

年月日 西暦 原 文 出 典
多仁村 (熊毛) 康保3.-.- 966 〔清胤王書状〕【多仁郷】□(一ヵ)令漂夫、多仁村官□残米九十一石直銭‖□□従室泊、大嶋・多仁両村船、他船竝/枝船立前罷去已了‖右、在国之日、多仁・都乃両/村田、件人々預已了、 県史古p.317
九条家本延喜式巻二十八紙背文書〇東京国立博物館蔵
三井村☆ (熊毛) 寛喜3.12.25 1231 〔関東下知状写〕周防国三井村事/右安家法師并左馬允資信与地頭民部五郎行朝代舎兄弾正忠行季相論之子細、具被聞食畢、所詮行朝父行景充給地頭職事、根元非関東御計、故葉上僧正坊国務之時、得庁宣之後、申給御教書云々、而行勇律師国務奉行之今、先師僧正返付安家等之子細申之、然則任先例、可為国司進止之状、依鎌倉殿仰下知如件、‖武蔵守平 在判/相模守平 在判 県史中荘園p.431
新修東大寺聖教
田布施村☆ 多仁庄
(熊毛)
建治2.6.28 1276 〔官宣旨〕左弁官下東福寺/応永為当寺別院常楽庵領、停止甲乙人妨、周防国多仁庄田布施村内字上田布施・真殿以下田畠山野小佃等事、 鎌遺⑯p.281
大和平岡定海氏所蔵文書
勝間村[12] (熊毛) (建治3) (1277) 〔土師吉安申状〕散位土師吉安謹言上/欲蒙付当知行、任無誤実、安堵御成敗、傍官貞弘掠給国宣、擬令押妨、勝間村書生職無謂事、 鎌遺⑰p.121
上司家文書
石口村 美和庄
(熊毛)
応安6.8.10 1373 〔美和庄兼行方名田畠充行状案〕在判/下 周防国美和庄兼行方/石口村吉行・有近両名道阿跡田畠等事/清五所/右、於彼田畠等者、所充行也、御年貢・御公事以下、無懈怠令勤仕、永代可有知行、仍下之状如件、 南北遺④p.359
東寺百合文書ハ函76-2
笠野村 熊毛郡 永享6.10.23 1434 〔内藤智得〈盛貞〉譲状〕譲与 智得所領等事 壱所〈周防国本郡小周防地頭職事 陶山佐渡守跡横山跡杉加賀守知行分笠野村除之〉‖右所領者、智得為本領知行無相違者也、相副代々将軍家御判、美濃守盛貞所譲与也、‖ 萩閥③p.159
内藤小源太
伊保庄南村☆ 伊保庄
(熊毛)
文明9.6.15 1477 〔某状断簡〕一筆に被相副候[   /文明九/六月十五[   /伊保庄南村/千躰寺[  /以此料紙辻五[   県史中④p.887
松江八幡宮天文十二年大般若経紙背文書
宇佐木村 熊毛郡 文明12.3.26 1480 〔周防国熊毛郡宇佐木四方立写〕一、玖珂郡之内、立ヶ浜横川堺目也、はまの上ニ石仏堺め水ばしり東宇佐木也、此山の尾より上ニ岩有也、其外ニ横道有之、かきり田茂堤茂、にし戌亥之方ニ山尾有之、戌亥玖珂郡之内余田村、東熊毛也宇佐木村也、与田堺目ほうおんじ高山は余田、此山水はしり也、何時茂山ニ付、出入有之 県史中②p.165
長尾家文書
伊保庄北村 伊保庄
(熊毛)
文明12.3.26 1480 〔周防国熊毛郡宇佐木四方立写〕一、たふろき田水落、三ヶ村堺目事、道上北ハ新庄、東ハ伊保庄北村之内、西南之間ハ宇佐木也 県史中②p.166
長尾家文書
大野村☆ (熊毛) 文明12.3.26 1480 〔周防国熊毛郡宇佐木四方立写〕一、此岡より南ノ方大野村、東ノ方ハ伊保庄北村之内、北南ノ方之宇佐木村也、 県史中②p.166
長尾家文書
小中村 熊毛郡 文明12.4.20 1480 〔大内氏奉行人連署奉書〕乗福寺領周防国熊毛郡小中村事、桑原与三左衛門尉与寺家相論之儀、被経御沙汰畢、 県史中②p.841
乗福寺文書
塩田村☆ (熊毛) 永正期ヵ 〔寺社徳政事〕一 以前内々如被仰出候、御分国中寺社之事、‖殊更乗福寺事、寺領所々有名無実之上、不慮相違之地等候、結句就公物無沙汰之儀、去年已来塩田村事被押置候、‖道輔/弘頼/陶殿人々御中 中世法制史料③p.104
大内氏掟書
佐賀村☆ 伊保庄
(熊毛)
天文24.12.13 1555 〔大内義長袖判代官職宛行状〕周防国熊毛郡伊保庄佐賀村九拾石、佐波郡富海保四拾六石、同郡三田尻五拾捌石地、都濃郡富田中村拾参石五斗地、長門国厚狭郡吉田一方〈寺社給人給除之〉地等代官職事、任先例可其沙汰之状如件、 萩閥②p.517
粟屋権兵衛
任美村 熊毛郡 弘治3.8.28 1557 〔毛利隆元袖証判杉松千代丸重良当知行注文〕一、五拾石 熊毛郡内任美村 萩閥②p.776
杉七郎兵衛
関屋村 熊毛郡[13] 永禄期ヵ 〔防府国分寺領・同末寺不知行目録〕当時不知行分/一、同料田熊毛郡三井村三石足、近年不知行之事、/一、同郡安田保関屋村拾石足、近年不知行之事 県史中②p.435
国分寺蔵文書(周防国分寺文書)

都濃郡

郷(里)

周防、熊毛久末計・久萬介、多仁、美和、全戸、波濃

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
山田郷 鷲頭庄
(都濃)
貞和3.3.21 1347 〔陶弘政書下写〕周防国鷲頭庄山田郷中村役神、并大歳夜殿夜同日之はれ御申、任先例旨、生野郷与一権守天長地久之御祈祷、のつと、御神楽、如前々無相違之文言、、、、、 南北遺②p.227
防長寺社由来徳山領生野屋村松尾八幡宮蔵
生野郷[14] (都濃) 貞和3.3.21 1347 〔陶弘政書下写〕周防国鷲頭庄山田郷中村役神、并大歳夜殿夜同日之はれ御申、任先例旨、生野郷与一権守天長地久之御祈祷、のつと、御神楽、如前々無相違之文言、、、、、 南北遺②p.227
防長寺社由来徳山領生野屋村松尾八幡宮蔵
河内郷 都濃郡 永正2.2.23 1505 〔大内義興安堵状〕周防国都濃郡河内郷内拾五石地〈号地頭方/在坪付別紙〉事、任冷泉五郎興豊約諾状之旨、玉信僧都進止永不可有相違之状如件、 県史中②p.945
冷泉家文書
豊井郷☆ 都濃郡 永正16.9.11 1519 〔大内義興袖判下文〕(花押)/下 冷泉民部少輔興豊/可令早領知周防国熊毛郡新屋河内六拾石〈安富弾正/忠跡〉・‖都濃郡末武村六拾七石地〈安富三郎跡〉・同郡豊井郷内五拾石地〈波多野雅楽之助/跡〉‖右以人所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、 県史中②p.945
冷泉家文書
久米郷☆ (都濃) 永正18.3.30 1521 〔杉重清預ヶ状〕【久米郷】久米郷慈福寺事、連々相成大破之条、寺家事令改易訖、仍彼寺事預進之、然者、云寺家云寺領、執務不可有相違之状如件、 県史中②p.276
慈福寺文書
長穂本郷☆ 富田保
(都濃)
享禄2.10.18 1529 〔陶興房安堵状〕富田保長穂本郷之内町田、同所刀禰名、并末武令之内南畑、其外御寺領万雑公事致免除之由、任去文安弐年十一月十三日・永享二年二月十七日・同六年九月二日越前守盛政寄進状之旨、御当知行令存知訖、守先例弥可被全寺務者也、仍状如件 萩閥④p.406
吉祥山龍文寺
生野屋郷☆ 都濃郡 天文15.4.5 1546 〔大村興景譲状〕【生屋郷】譲与‖一所弐石足 周防国都野郡生野屋郷在之、但現土貢拾一石定之、其外納□銭夫足等無之、漸米単ニ拾石也、 県史中③p.358
常栄寺文書
矢地郷☆ 都濃郡 天正10.6.17 1582 〔毛利輝元知行充行状〕備後国萩原内地頭分百伍拾貫、芸州佐東郡内弐拾貫、防州矢地・生野屋両郷内百貫地等事、任元就・隆元合力被申之判形之旨、無相違御知行肝要候、仍一行如件、 萩閥①p.400
乃美仁左衛門
四熊郷☆ 都濃郡 天正17.5.22 1589 〔毛利氏奉行衆連署打渡坪付〕防州都濃郡検地〈打渡坪付〉之事/合 四熊郷‖ 萩閥遺漏P.27
井上彦左衛門
戸田郷[15] 都濃郡 天正17.6.15 1589 〔周防国都濃郡戸田郷打渡坪付案〕防州都濃郡御検地〈打渡/坪付〉事/合 戸田郷 八幡宮 県史中②p.273
桜田八幡宮文書

年月日 西暦 原 文 出 典
大嶋村[16] (都濃) 康保3.-.- 966 〔清胤王書状〕□(一ヵ)令漂夫、多仁村官□残米九十一石直銭‖□□従室泊、大嶋・多仁両村船、他船竝/枝船立前罷去已了 県史古p.318
九条家本延喜式巻二十八紙背文書〇東京国立博物館蔵
都乃村 (都濃) 康保3.-.- 966 〔清胤王書状〕【都濃郷】一、可被召仰公真・福茂所預置佃事/右、在国之日、多仁・都乃両/村田、件人々預已了、 県史古p.318
九条家本延喜式巻二十八紙背文書〇東京国立博物館蔵
富田村☆ 都濃郡 永仁2.10.10 1294 〔北条実政施行状案〕【富田郷】造東大寺大勧進良観上人申、周防国諸郷保所務事、今年七月廿七日関東御教書〈副訴状具書、〉如此、早可被存知其旨也、仍執達如件、‖御施行被成下周防国諸郷保地頭 次第不同‖富田村伊賀失地戸田地頭御代官 鎌遺㉔p.195
大和尊勝院文書
富田上村 (都濃) 延徳2.10.18 1490 〔陶武護宛行状写〕富田上村内井谷稲吉名伍石地事、為神上宮ノ坊領宛行者也、 戦遺大①p.228
防長風土注進案神上宮坊
末武村☆[17] 都濃郡 永正16.9.11 1519 〔大内義興袖判下文〕(花押)/下 冷泉民部少輔興豊/可令早領知周防国熊毛郡新屋河内六拾石〈安富弾正/忠跡〉・‖都濃郡末武村六拾七石地〈安富三郎跡〉・同郡豊井郷内五拾石地〈波多野雅楽之助/跡〉‖右以人所充行也者、早守先例、可全領知之状如件、 県史中②p.945
冷泉家文書
富田中村 都濃郡 天文24.12.13 1555 〔大内義長袖判代官職宛行状〕周防国熊毛郡伊保庄佐賀村九拾石、佐波郡富海保四拾六石、同郡三田尻五拾捌石地、都濃郡富田中村拾参石五斗地、長門国厚狭郡吉田一方〈寺社給人給除之〉地等代官職事、任先例可其沙汰之状如件、 萩閥②p.517
粟屋権兵衛
須々万村☆[18] 都濃郡 弘治4.6.1 1558 〔〈毛利元就袖判〉同氏奉行衆連署打渡坪付〕防州都濃郡須々万内〈打渡/坪付〉事‖以上田壱町二段、米六石五斗 萩閥②p.325
井上源三郎
来巻村☆ 都濃郡 (16C後期ヵ) 〔内藤隆春分領惣田数付立〕防長之内隆春分領惣田数辻之事‖都濃郡之内/一、四町 来巻村 萩閥③p.143
内藤小源太

佐波郡

郷(里)

牟礼、達等太々良、佐波、日置比於木、玉祖多末乃也・多萬乃於也、勝間加豆万・加都萬

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
牟礼郷☆ 佐波郡 神亀3.10.- 726 〔平城宮跡出土木簡〕【牟礼郷】周防国佐波郡牟礼郷上村里戸辛人麻[  ]□二枚神亀三年十月 県史古p.828
平城宮発掘調査出土木簡概報19
植松原郷 (佐波) 弘安5.11.4 1281 〔亀山上皇院宣案〕周防国植松原郷為当寺鎮守八幡宮領、賢舜法眼得圓照上人譲、多年已知行云々、向後永為別相伝之地、神用之勤、不可致懈怠之由、可令下知給者、/院宣如此、仍執達如件、/参議頼親 鎌遺⑲p.371
東大寺文書四ノ四十一

年月日 西暦 原 文 出 典
上得(地)村[19] (佐波) 貞永1.4.4 1232 〔後堀河天皇綸旨写〕(前欠)大前新庄・大野本郡・上得〔地脱〕村・束荷保/右四箇所、東大寺造営之間、先以返付国衙、塔・講堂・三面僧坊已下、所々土木之勤、可被終早速之功者、天気如此、仍執達如件、‖中宮大進 在判/行勇僧都禅坊 県史中荘園p.433
口宣綸旨院宣御教書案
伊賀地村☆ (佐波) 文永11.4.- 1273 〔玉睿寄進状案〕東大寺沙門玉睿在判/寄進 西方寺灯油料畠壱段半事在下徳地伊賀地村鳥居瀬 鎌遺⑮p.273
上司家文書
大崎(前)村☆ (佐波) 永仁1.12.7 1277 〔関東御教書案〕東大寺衆徒申条々‖一、周防国大前村郡司長田孫太郎泰家、致苅田狼藉由事、以上解状〈副具書、〉遣之、早速可被尋沙汰之状、依仰執達如件、 鎌遺㉔p.85
東大寺文書四ノ四
船路村☆ (佐波) 元徳3.-.- 1330 〔東大寺大行事下知状〕下得地保引谷山木津事、号船地村下庄内致妨云々、山尾立眼前之間、非船地内之由、去年惣検之時治定畢、向後及違乱者、可処罪科者也、然早為籠山内之上者、於向後者、固可致守護之状下知如件、        大行事(花押) 県史中②p.342
阿弥陀寺文書
岸見村☆ 佐波郡 応永2.8.15 1395 〔三坂神社鐘〕周防州娑摩郡岸見村三坂神社 山口金石文p.206
上得地保下村 上得地保
(佐波)
応永11.12.21 1404 〔大内氏奉行人連署打渡状〕東福寺雑掌瑞泉都寺与大乗坊教覚相論周防国上得地保下村内藤木畑刀祢職并名田畠等事、両方雖申子細、教覚所進契状等者、為不知行文書之上、不帯寺家下知之間、不足支証、然早可沙汰付当畑於雑掌方之間、今月廿一日御奉書如此、仍所打渡状如件、‖上得地保庄主禅師 県史中荘園p.660
九条家文書
多々良村 (佐波) 永享2.7.13 1430 〔大内氏奉行人連署奉書〕阿武郡紫福郷四分三半分内於参拾石足、多々良村代所至残分、所被宛行也、任先例可有知行之由候、仍執達如件 萩閥②p.208
三浦又右衛門
得地(下)村[20] (佐波) 長禄2.3.28 1458 〔足利義政御判御教書案〕東福寺領山城国法性寺八町課役・美作国勝賀茂郷内田地参町小同公文職・因幡国古海郷内名田職・周防国得地上〔下脱ヵ〕両村公文職等事、所返付当寺也、早如元可全領知之状如件‖右近衛大将源朝臣(花押) 県史中荘園p.620
東福寺文書
長州村 (佐波) 寛正2.-.- 1461 〔東大寺法華堂要略〕一、執金剛神御領仁井令長洲村□□トモニヨテ□、厳重ノ三昼夜、例年ノ処ニアリ、十月三日ニ始□入、同アマヤ川方ニテサタアリ、 県史中①p.589
続々群書類従5
堀村☆ 下得地保
(佐波)
文明19.-.- 1487 〔周防国佐波郡下得地保年貢算用状〕注進/東福寺御領周防国下得地保文明十九年〈丁/未〉算用状事‖〈堀村〉一町九段三百歩 五斗九升代 分米十一石七斗一合‖ 県史中荘園p.621
東福寺文書
岡依村[21] 佐波郡 大永3.10.16 1523 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/大行事 岡依村むろし与三左衛門 県史中②p.606
防府天満宮文書
日坂根村[22] (佐波) 享禄元.-.- 1528 〔重吉書状〕‖日根坂「村」(異筆ヵ) 重吉 県史中②p.482
防府天満宮文書
勝間村[23] (佐波) 享禄3.6.7 1530 〔阿弥陀寺文書目録〕【勝間郷】四、南都訴状事書案一巻‖西仁井令并勝間村正税事〈伊賀守返状〉 県史中②p.348
阿弥陀寺文書
右田村☆[24] (佐波) 天文4.10.16 1535 〔天満宮十月会諸役差文〕定頭事 右田村弥四郎子 道祖法師 県史中②p.610
防府天満宮文書
高倉村 (佐波) 天文4.10.16 1535 〔天満宮十月会諸役差文〕残鬮衆事 定頭事 高倉村千松  県史中②p.610
防府天満宮文書
得地三ヶ村 (佐波) 天文19.9.28 1550 〔梅霖守龍周防下向日記〕一、富田滞留中戸倉語云、得地三ヶ村代官連年雖為毛利掃部允方、自当秋上村・中村ハ柿並市佑《イチノゼウ》、下村〈号下/得地〉者伊賀香一次郎方也、可得其心云、 県史中①p.468
東福寺大機院蔵
得地上村 (佐波) 天文20.2.19 1551 〔梅霖守龍周防下向日記〕一、十九日、自柿並市佑方有使者云、得地上・中村之代官致存知、就其人足之余力無之、以代物可勘渡ト云々、 県史中①p.470
東福寺大機院蔵
得地中村[25] (佐波) 天文20.2.19 1551 〔梅霖守龍周防下向日記〕一、十九日、自柿並市佑方有使者云、得地上・中村之代官致存知、就其人足之余力無之、以代物可勘渡ト云々、 県史中①p.470
東福寺大機院蔵
鈴屋村☆ (佐波) 天文22.2.22 1553 〔松尾山大坊領同所々拘分注文〕松尾山大坊領同所々拘分事/合/一所 弐段 同畠《高畠鈴屋村国衙領高除之》 両界堂免 県史中②p.397
光明寺文書
奈美村☆ (佐波) 天文22.2.22 1553 〔松尾山大坊領同所々拘分注文〕松尾山大坊領同所々拘分事/合‖一々 弐段大《下田中鐘ツキ免奈美村同領高除之》 同免田 県史中②p.397
光明寺文書
高井村☆ (佐波) 永禄2.11.30 1559 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮十月会諸役人事‖残鬮衆‖定役 孫七子《高井村》 北村子《高倉村》 県史中②p.624
防府天満宮文書
畑村☆ (佐波) 永禄3.10.16 1560 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮来十月会諸役人事‖定役 新四郎子《畑村》 県史中②p.624
防府天満宮文書
五ケ中山村☆ 佐波郡 永禄10.8.6 1567 〔毛利氏奉行連署奉書〕周防国吉敷郡賀川村之内七石足、同国佐波郡五ケ中山村内三石足地等之事、 萩閥④p.351
吉田裁判
小祖村☆ (佐波) 永禄期ヵ 〔防府国分寺領・同末寺不知行目録〕防府国分寺領・同末寺近年不知行目録‖一、本堂修造料所‖一、同料田下得地小祖村武光名五反、当寺吉見殿押領之事、 県史中②p.434
国分寺蔵文書(周防国分寺文書)
三田尻村☆ (佐波) 元亀4.10.17 1573 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/天満宮来十月会諸役人之事/大行事  三田尻村五郎左衞門子伊勢 県史中②p.632
防府天満宮文書
小俣村 佐波郡 天正6.5.16 1578 〔乗福寺領検地帳〕吉敷郡/乗福寺領/田大《宮ノ本》 四斗 神五郎‖一 六拾石  小俣村《佐波郡》 県史中②p.848
乗福寺文書
(三田尻内)岡村 (佐波) 天正16.10.16 1588 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/天満宮来十月会諸役人之事/大行事 三田尻内岡村藤井善四郎子福寿 県史中②p.641
防府天満宮文書
植松村☆ 佐波郡 天正17.7.1 1589 〔周防国佐波郡植松村打渡坪付写〕防州佐波郡植松村内〈打渡/坪付〉之事/合 車塚妙見年中祭方‖右打渡如件、 県史中②p.656
防府天満宮文書
伊佐江村☆ (佐波) 天正19.10.16 1591 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮来十月会諸役人事‖残鬮衆‖定役 伊佐江村讃井源三子 県史中②p.643
防府天満宮文書
江口村 (佐波) 文禄3.10.16 1594 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮来十月会諸役之事‖大行事 三田尻江口村藤井頭国重新四郎 県史中②p.644
防府天満宮文書
佐波村☆[26] 佐波郡 文禄4.10.16 1595 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮来十月会諸役之事‖大行事 清水惣左衛門尉子新吉 佐波村居住 県史中②p.645
防府天満宮文書
河口村 (佐波) (文禄5) (1596) 〔養徳院祠堂帳〕仏艮山養徳院禅院祠堂帳‖米二石 得地河口村新兵衛〇婦夫《上》、為逆修祠堂施入也 県史中②p.887
法雲院文書
奥畑村☆ (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村 県史中②p.551
防府天満宮文書
麻生村 (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村 県史中②p.551
防府天満宮文書
赤山村 (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村 県史中②p.551
防府天満宮文書
鋳物師屋村 (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村‖以上‖鋳物師屋村/田弐二反四畝《石橋》 米一石八斗四升 孫左衞門 県史中②p.553
防府天満宮文書
国衙村☆ (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村‖以上‖国衙村/田五畝《かほノせうさ》 米七斗 三郎衛門 県史中②p.554
防府天満宮文書
八王子村 (佐波) 慶長4.8.12 1599 〔周防国佐波郡天満宮西林坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮西林坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村‖以上‖八玉子村/田九畝《いしこそ》 米一石一斗四升 久市 県史中②p.554
防府天満宮文書
迫戸村 (佐波) 慶長4.8.15 1599 〔周防国佐波郡天満宮会所坊領打渡坪付〕防州佐波郡天満宮会所坊領坪付事/合 奥畑・麻生・赤山村‖迫戸村/田八畝《すなはしり》 米九斗六升 助 県史中②p.556
防府天満宮文書
真尾村☆ (佐波) 慶長4.8.15 1599 〔周防国佐波郡天満宮鈴木式部太輔給打渡坪付〕防州佐波郡天満宮鈴木式部太輔給坪付事/合 真尾村  県史中②p.556
防府天満宮文書
石田高石村[27] (佐波) 慶長4.8.15 1599 〔周防国佐波郡天満宮鈴木式部太輔給打渡坪付〕防州佐波郡天満宮鈴木式部太輔給坪付事‖東仁井令‖田八畝十歩《石田高石村》 米壱石一斗七升 喜左衛門 県史中②p.556
防府天満宮文書
惣社村 (佐波) 慶長4.8.16 1599 〔周防国佐波郡松崎天満宮社領惣目録〕周防国松崎天満宮社領千弐拾八石余惣目録/社用所 円楽坊‖合‖牟礼令 惣社村 市後地 県史中②p.559
防府天満宮文書
赤間村 (佐波) 慶長4.8.16 1599 〔周防国佐波郡松崎天満宮社領惣目録〕周防国松崎天満宮社領千弐拾八石余惣目録/社用所 円楽坊‖合‖迫戸村 赤間村 □蔵村 県史中②p.559
防府天満宮文書
海出村 (佐波) 慶長4.8.16 1599 〔周防国佐波郡松崎天満宮社領惣目録〕周防国松崎天満宮社領千弐拾八石余惣目録/社用所 円楽坊‖合‖大崎村 海出村 八王子村 県史中②p.559
防府天満宮文書
国分村 (佐波) 慶長4.10.16 1599 〔天満宮十月会諸役差文〕差定/松崎天満宮来十月会諸役人之事‖残鬮衆‖大行事 国分村藤井与右衛門尉子竹寿 県史中②p.647
防府天満宮文書

吉敷郡

郷(里)

八田、宇努、仲河、益必夜介比止・也介比止、神前、多寶、八千、加寶、浮囚、廣伴

郷(里) 年月日 西暦 原 文 出 典
神前里☆ 吉敷郡 和銅7.10.24 714 〔平城宮跡出土木簡〕周防国吉敷郡神前里戸主蘇宜部□(那ヵ)塩三斗/和銅七年十月廿四日 県史古p.835
平城宮発掘調査出土木簡概報21
矢地里 宮野庄
(吉敷)
正治2.11.- 1200 〔周防国阿弥陀寺田畠坪付〕【八千郷】[28]〔周防国阿弥陀寺田畠坪付〕周防国/定置 南無阿弥陀仏別所寺用料田畠坪差事/合弐拾伍町玖段/田弐拾弐町玖段‖土匋‖一丁‖矢地里/三坪一段/六坪二段/七坪一段/八坪五段/十四坪一段 県史中②p.334
阿弥陀寺文書
小郡郷☆ 椹野庄
(吉敷)
天福1.7.9 1233 〔関東下知状〕可令早停止東大寺領周防国椹野庄地頭職事/右、如寺解者、承久乱逆之時、当庄住人等、無指科之処、被補地頭之条、難堪次第也、且小郡并賀河郷者、当庄一所也、 鎌遺⑦p.56
東大寺要録2
賀河郷[29] 椹野庄
(吉敷)
天福1.7.9 1233 〔関東下知状〕可令早停止東大寺領周防国椹野庄地頭職事/右、如寺解者、承久乱逆之時、当庄住人等、無指科之処、被補地頭之条、難堪次第也、且小郡并賀河郷者、当庄一所也、 鎌遺⑦p.56
東大寺要録2
五箇郷 仁保庄
(吉敷)
文永1.2.18 1264 〔平子重資譲状案〕譲渡/周防国仁保庄内五箇郷地頭公文両職事、/右、件職者、依為重代相伝私領、平重親所譲渡実也、且可仰将軍家御成敗者也、仍為後日沙汰、譲状如件、 鎌遺⑫p.319
長門三浦家文書
白松郷☆ (吉敷) 建武3.11.26 1336 〔一雄寄進状写〕奉寄/周防国白松古尾八幡宮別当弘済鎮国寺御除之事白松郷内田地之事/坪附在別紙、/右為仏法興隆・天地長久・御願円満、所奉寄進也、不可有永代相違、依寄進状如件、/一雄(花押影) 県史中③p.711
弘済寺文書
長野郷☆ (吉敷) 正平5.2.16 1350 〔兵部郷親王令旨〕周防国長野郷地頭職三分一、為勲功賞可令知行者、 兵部郷親王令旨如此、悉之、以状、/右少将(花押) 南北遺②p.328
伊豫忽那文書
朝倉郷 (吉敷) 永和3.4.15 1377 〔朝倉八幡宮獅子頭墨書〕敬白 大願主多々良氏女/奉施入朝倉郷八幡宮輿頭壱面事/作者大金 山口市史
大内文化P.859
小鯖郷☆ (吉敷) 天文5.9.29 1536 〔大内氏奉行人連署奉書〕小鯖郷 八幡領半済米八石事、近年雖為金鼇院納、従当土貢被還補畢者、早守先例可被全 社務之由、依 仰執達如件、 県史中④p.627
宮内家文書
吉敷郷☆ 吉敷郡 文禄3.3.25 1594 〔毛利輝元裁許状〕常永寺領防州吉敷郡吉敷郷内七百参拾弐石余足、同国同郡下津令之内百四拾四石余足、‖為当寺領、任円侃和尚譲之旨、所令裁許也、全有執務修造勤行無懈怠可有沙汰之状如件、/輝元(花押) 県史中③p.345
常栄寺文書

年月日 西暦 原 文 出 典
大内村 宮野庄
(吉敷)
建久6.9.- 1195 〔周防宮野荘立券文〕立券/言上東大寺御領周防国宮野庄田畠荒野杣山在家等目録事在管大内村内[30] 鎌遺②p.156
上司家文書
深野村[31] 仁保庄
( 吉敷)
貞応3.11.30 1224 〔関東下知状案〕可令早平重資為周防国仁保庄地頭職事/右人、任親父重経法師之譲状、可為彼職也、兼又重綱分深野村、不可有異論之状、依仰下知如件、 鎌遺⑤p.317
長門三浦家文書
吉田村☆ (吉敷) 徳治3.3.16 1308 〔藤井光永譲状〕譲与/長賢所/恒富保平清水八幡宮并吉田村田諸社神主職事/右職者、重次殿御時賜彼社々神主職御下文畢、就中八幡宮御殿之沙汰、自往古重代相伝于今無相違、而相副御下文、長賢譲与之 県史中②p.884
平清水八幡宮文書
仁戸田村[32] 吉敷郡 観応3.3.7 1351 〔興隆寺領周防国吉敷郡仁戸田村田地支配状〕興隆寺御寄進仁戸田村田地六口仁弐段宛支配事 県史中③p.250
興隆寺文書
大里村 秋穂庄
(吉敷)
応永10.6.25 1403 〔万寿寺鰐口〕奉掛鰐口一口秋穂之庄二嶋大里村万寿寺 山口金石文p.224
秋穂下村 秋穂庄
(吉敷)
応永13.12.1 1406 〔下村百姓等言上状〕畏而言上候、当庄下村御神役等宮司役之事、 県史中②p.989
善城寺文書3
中野村 秋穂庄
(吉敷)
応仁1.6.1 1467 〔周防秋穂八幡宮旧記〕又文正元年十二月三日、庄内立山道木并野垂木四佰余本切之、翌年春、当庄之諸社林森之木、於用木者不嫌寺社人給採用之、其内中野村疫神林松木二本切之、秋穂方為給所之内之由申之、 県史中①p.528
周防秋穂八幡宮旧記
西中村 吉敷郡 文明3.4.25 1471 〔大内氏家臣連署奉書写〕周防国吉敷西中村国清寺領半済拾余町地〈大屋修理亮跡〉事、 戦遺大①P42
河津伝記
端山田村 (吉敷) (明応期以降).4.28 〔杉武道書状〕端山田村内当山御領事、為屋敷申請候之処、任 上意渡給候、畏入候 県史中③p.329
興隆寺文書
小野村 吉敷郡 大永7.8.13 1527 〔大内義興裁許状〕周防国吉敷郡小野村内四石壱斗地事、任当知行旨所令裁許也者、早守先例、寺務不可有相違之状如件、 県史中②p.839
勝興寺文書
鋳銭司村☆ 吉敷郡 享禄3.-.- 1530 〔杉村家所蔵文書〕木綿手継之事、周防国吉敷郡鋳銭司村権現社之神主云々 ※原本確認できず。『山口県の地名』p.353
大畠村 吉敷郡 天文1.11.- 1532 〔瑠璃光寺鐘〕欽奉鋳/大日本国防州吉敷郡仁保庄/大畠村/光明禅寺鐘 山口金石文P.54
朝田村☆ 吉敷郡 天文22.6.20 1553 〔大内義長袖判竹田定詮当知行付立〕《大内義長ノ》判/一、周防国吉敷郡朝田村千世丸保内段銭加之‖右当知行此前候、段銭并諸添役以下、従前〃無其沙汰候也矣 萩閥④p.60
竹田定安
堀村☆ 吉敷郡 弘治3.10.17 1557 〔毛利氏奉行人連署奉書〕武信事、当夏已来爰許祇候辛労之通、慥被 知食之、仍為其賞長門国美祢郡嘉万別符内五石足〈須子弥太郎/先知行〉、周防国吉敷郡矢田令内壱石足〈進与三左衞門/先知行〉、同国同郡御堀村内弐斗足〈同法見阿弥/跡〉等事、今度以遅参篇被召放、被宛行武信畢者、下地云当土貢被全知行、弥可被励奉公忠事肝要之旨候也、仍執達如件、  県史中④p.620
京都大学総合博物館蔵文書(原家文書)
吉敷西庄上村 吉敷西庄
吉敷郡
永禄2.11.6 1559 〔金鼇院納所善璜下知状〕金鼇院領吉敷郡吉敷西庄上村之内末房名事、依筋目有馬与四郎相拘度之通、以赤川源左衛門尉元久裁判被申之間、任彼儀預進之、 県史中②p.688
毛利家旧蔵文書(有馬家文書)
黒川村☆ (吉敷) 永禄3.7.2 1560 〔毛利隆元知行充行状〕黒川村之事、為給地宛行候、全可有知行候、仍如件 萩閥②p.125
中川与右衛門
糸米村 吉敷郡 永禄9.8.29 1566 〔毛利元就・同輝元連署安堵状〕周防国吉敷郡今八幡社領同郡糸米村内弐町地、同郡御堀村七段大地、同郡受月庵領六段、并山口屋敷七町余〈段銭諸役免除之〉等事〈坪付別紙在之〉去弘治三年拾月六日任隆元判形之旨令裁許畢者、早先例、全社務可抽誠精之状如件、 萩閥④寺社証文p.419
山口今八幡

所属郡不明

年月日 西暦 原 文 出 典
堀田村 康応1.11.13 1389 〔大内義弘安堵書下写〕御袖判《大内九郎殿と付紙あり義弘朝臣也》/乗福寺塔婆大工給堀田村内田地五段事、任去康永三年三月日寺家下知状之旨、正親相続知行不可有相違之状如件、 南北遺⑥p.168
防長風土注進案巻12
糸井弥村 16c後半ヵ 〔毛利隆元書状〕今度糸井彌村悪心之者共逆意を企候之処、其方百性与三右衛門以内通聞付、彼者共討罰候、忠節之儀無申計候、能々可褒美事肝要候、猶源左衛門尉可申候謹言 萩閥③p.490
久芳五郎右衛門

  1. 遠江・安房・美濃・安芸・筑前の諸国にみられる「壬生郷」や、参河国の「美夫郷」と同音であろうとする考えから、この郷も「みふ」と読む説が有力である(日本地理志料、防長地名淵鑑)。(しかし木簡には掲示した文言が現れるため)、「和名抄」が記載するときに「美敷」と誤写したか、あるいは平安時代に入って郷名が一字改められたかのどちらかであろう。(平凡社、『日本歴史地名体系』)
  2. (ただし)、「伊実(實)」は「伊宝(寶)」の誤りとして、熊毛(くまげ)郡伊保庄(いほのしよう)(現柳井市)を郷域に擬する説(日本地理志料)もある。「東宝記」所収の天暦八年(九五四)五月一五日の太政官符に「秦人茂町丸年廿五、周防国玖珂郡伊宝郷戸主周防凡直実則戸口、師主大安寺伝燈大法師位延静」とあって、京都の東(とう)寺(現京都市南区)で得度した秦人茂町丸は玖珂郡伊宝郷戸主周防凡直実則の戸口であったこと、さらに、延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍(石山寺所蔵文書)にみえる戸主和爾部今男・津久可男・土師浄益・三宅兄男・山田買男はいずれも「伊宝郷」と記されている。(『日本歴史地名体系』)
  3. 村名でも出現。萩博「杉家文書」p.4〔大内盛見知行安堵状〕「周防国日積村内田地・豊前国田河郡仲元寺村等事、為民部丞重茂跡、相続不可有相違之状如件」
  4. 前掲「伊実(宝)郷」とはさしあたり別に立項しておく。
  5. 本郷村としても出現。また「山代本郷」とも呼ばれる(萩閥②p.202「毛利輝元知行充行状」)。
  6. 前掲、「大永乃記録」と近しい内容をもつ史料。
  7. 村名も出現(萩閥①p.791、10.16〔毛利隆元書状〕「岩国村之儀ニ付而、其方去年以来出入をも仕候‖」)。
  8. 郷名でも出現(『県史中』②p.174長享2.6.2〔大内政弘袖判補任状〕「定補越智通次/周防国玖珂郡祖生郷新宮々司職事‖」)。
  9. 郷名でも出現。(『県史中②』p.195三井家文書〔大永乃記録〕大永三年の秋十三ヶ村検地辻‖宇佐郷 刀祢 讃井弾正才判/一、高百三拾九石弐斗)
  10. 村名でも出現。(『萩閥』①p.460弘治2.10.21〔毛利隆元知行充行状〕「防州熊毛郡高尾村弐百石足之事、為給地進之置候、全可有知行事肝要候、仍一行如件」)
  11. 内藤隆春は慶長5年(1600)没。宛名に見える児玉元良は天正期前後が活動終見である。
  12. 周防本郡は熊毛郡にあるため佐波郡の勝間でないと判断した。『山口県の地名』p186も参照。
  13. 関屋という地名は吉敷郡にも存在。『日本歴史地名体系』より。
  14. 「生野屋郷」も存在。その関係は現在不明。県史中③p.358、天文15.4.5〔大村興景譲状〕「一所弐拾石足 周防国都野郡生野屋郷在之」
  15. 村名でも出現。(県史中③p.692、慶長3.9.19〔毛利輝元安堵状〕「杉原民部知行周防都濃戸田村之内拾石四斗八升事」)
  16. 近世、都濃郡に同名の村が存在することから配置した。
  17. 郷名でも出現。(県史中②p.290、天文12.11.5〔陶隆房(晴賢)安堵状〕「防州都濃郡末武郷地蔵院住持職事‖」)
  18. 郷名でも出現(山口市史p.772棟札〔須々万本郷村 飛龍山八幡宮棟札〕)
  19. さしあたり「得地上村」とは別に立項する。
  20. 『蔗軒日録』文明17.1.24条に「是日大久都事赴防州下村、上使舟出武庫云、作状四五通、忍疾也」とある。(県史中①p.366大日本古記録)。
  21. 『防府天満宮文書』6「某袖判僧覚祐宛行状」に「周防国天神宮社領岡依《在佐波令内》」とある。
  22. 近世には久兼村となる。
  23. 萩閥③p.159「内藤智得譲状」にみえる「勝間村」は熊毛郡のそれとされる。『山口県の地名』p.186「呼坂村」参照。
  24. 郷名でも登場。(県史中②p.397 〔松尾山大坊領同所々拘分注文〕)
  25. 「中徳地村」(萩閥①p.562〔正実掟運御料所公用銀役メ状〕)も存在する。
  26. 佐波令村として近世に連続。
  27. 「高石村」も出現する。(県史中②p.559〔周防国佐波郡松崎天満宮社領惣目録〕)
  28. 御薗生翁甫『防長地名淵鑑』マツノ書店、1974(初出1931)による比定。
  29. 村名でも登場。〔嘉川村八幡宮棟札〕永正10.7.25(『山口市史』大内文化p.758)
  30. 同史料から、大内村が以下の里を抱えていたことが知られる。宮内辛栗里・石前里・宮内社前里・啚外里・萱原里・岡本里・十三条社前里・十二乃口里・桐乃里・関屋里・十一条宮里・上道里・池内里・堤田里・八条山尻里・越道里・長谷里。
  31. 郷名も出現する。『三浦家文書』p.302〔平子重頼和与状〕「わよ/すわうのくに仁保のしやうのうちふかのゝかうのちとう平子右衛門六郎重頼‖」
  32. 初出は弘安5.6.24「多々良氏女寄進状」〈県史中②p.824〉だが、検討を要する文書とされるため、採録しなかった。